さて、うちのご先祖さまは?―― 諸家譜ものがたり
私は、10人ほどの仲間と、40年以上にわたって、近世史の研究会を続けていますが、その仲間が集まって話し合うとき、よく「しょかふ」という言葉が飛び交います。正式名を 「寛政重脩諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」といい、徳川将軍家(しょうぐんけ)に拝謁(はいえつ)できた家柄の詳しい系図をまとめた本のことです。今の活字で印刷された刊本(かんぽん)になっているため、近世史を研究する際のまさしく「座右(ざゆう)の書」になっています。
この「諸家譜」ですが、徳川幕府がはじめ、すでにあった「寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)」の増補を思い立ち、後に計画を変更して新たに本格的な系図本の作成をめざしたといいます。手順は次のように進めました。
まず各家に、一族のおもに当主の生まれ、初見(初見=はじめてのめみえ)、元服、官職、公役(くやく)、善行、致仕(ちし=引退)、卒去(そっきょ=亡くなること)、法名などを書き出させ、それを係の者が、吟味して確かなものを採用しました。疑問のあるものは、一応そのまま載せますが、そのことを記すという厳密な態度さえとったようです。
まず各家に、一族のおもに当主の生まれ、初見(初見=はじめてのめみえ)、元服、官職、公役(くやく)、善行、致仕(ちし=引退)、卒去(そっきょ=亡くなること)、法名などを書き出させ、それを係の者が、吟味して確かなものを採用しました。疑問のあるものは、一応そのまま載せますが、そのことを記すという厳密な態度さえとったようです。
この大事業は、18世紀末に始まり、10数年の歳月をかけて、1812年に完成しました。原本は、1530巻もある大著で、私が持っている刊本は、昭和40年前後に続群書類従(ぐんしょるいじゅう)完成会が発行したもので、300~400頁の本編が22冊、それに索引4冊まで付いています。その内容を、諸家譜編纂事業の総裁を務めた堀田正敦(ほったまさあつ)を例に紹介しましょう。
名前に続いて、彼が「村由(むらよし)」と「藤八郎」とも名のったこと、「摂津守(せっつのかみ)」や「従五位下(じゅごいのげ)」の地位についたこと、実は仙台藩の伊達宗村の八男であること、母は坂氏であることが書かれ、ついで本文に移ります。
名前に続いて、彼が「村由(むらよし)」と「藤八郎」とも名のったこと、「摂津守(せっつのかみ)」や「従五位下(じゅごいのげ)」の地位についたこと、実は仙台藩の伊達宗村の八男であること、母は坂氏であることが書かれ、ついで本文に移ります。
彼は、28歳のとき、近江の堅田(かただ)藩一万石の堀田正富(まさとみ)の養子となり、その女(むすめ⇒系図では、女性は単に「女」とだけ記してあります。)を室に迎えます。翌年、家督をつぎ、さらに初めて将軍家にまみえます。その後、前述の摂津守となり、大番の頭をへて若年寄にまでのぼります。また、将軍家の婚姻や若君誕生にともなう御用を務め、縮緬(ちりめん)、巻絹(まきぎぬ)、時服(じふく)などの褒美を何度も賜ります。さらに聖堂の再建では、老中松平定信の補佐役にまで抜擢されました。このあたり、順風万帆(じゅんぷうばんぱん)の武家人生に思えますが、直後に起こった紀伊家の失火騒ぎの際、病いによって登営(とうえい=幕府に出仕すること)に遅れることを同輩にも伝えてなかったことが、咎められ、一週間あまりの拝謁さしとめとなりました。
彼の事跡は、ここで突然終わります。一世一代の大事業であった「寛政重脩諸家譜」編纂のことを記載できなかったことは、今もって残念に思っていることでしょう。
彼の事跡は、ここで突然終わります。一世一代の大事業であった「寛政重脩諸家譜」編纂のことを記載できなかったことは、今もって残念に思っていることでしょう。
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