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越中富山の薬屋さん


 今から60年も前の話です。当時私が住んでいた国鉄(今のJR)の小さな官舎にも、半年にいっぺん、富山の薬屋さん(単に売薬さんとも言ったような気がします)が来ていました。
 なかなか屈強な中年男性で、母と接するのを見て、子ども心にも「話がじょうずだなあ!」といつも感心してました。当時、置き薬として最も有名だったのは、「ケロリン」という鎮痛剤でしたが、どういうわけか、我が家の薬袋にあったのは、「ケロン」という名でした。もしかしたら、「ケロリン」本舗と競合する会社の売薬さんだったのかも知れません。というわけで、今回は、富山の薬屋さんのことを取り上げてみたいと思います。

 富山藩の第二代藩主前田正甫(まさとし)公は、早くより本草学(ほんぞうがく=中国の薬物について研究する学問)に造詣が深く、薬草の収集や長崎からの医術の導入をはかっていました。そして、天和3(1683)年、備前岡山の医師万代常閑(もず じょうかん)を招き、反魂丹(はんごんたん=食傷・腹痛にきく丸薬)を調剤させました。これが富山売薬の始まりだと言われています。

 この事業は、全国を二十組に分けた強固な販売網と 独特の売り掛け制度(一定の薬を得意先に置き、使用分だけ集金する方法)により、藩の財政を支えました。富山売薬は、明治時代はもちろん、大正時代さらに第二次世界大戦後に至っても健在でした。

 富山の薬屋さんの持ち物の中心をなすのが、大きな風呂敷で包んだ五段重ねの柳行李(やなぎこうり)です。上にいくにつれてサイズが小さくなるので、荷物が少ないときは、すごくコンパクトにまとめることができます。

 この行李の下の方の二段には、新しい薬が入っています。これから配る薬です。下から三段目は、引き取ってきた古い薬用です。リニュ−アルして再利用する可能性があります。四段目は、得意先に渡すおみやげです。そして、五段目すなわち一番上には、矢立(やたて)・硯(すずり)などの筆記用具、丸薬を数えることにも使えたそろばん、大型のマッチ箱くらいの「お厨子(ずし)さん」(=仏壇)などとともに、売薬さんにとっては命より大事な 懸場帳(かけばちょう)が入っていました。

 薬を置く得意先は、懸場(古くは「御免場所」あるいは単に「場所」ともいったそうです。)といったので、その懸場についての大事な情報を記録したものを、「懸場帳」と呼びました。
 これは、得意先の売り掛けメモであるとともに、営業権を証明する重要な権利書でもありました。だから、高い値段で取引されました。この懸場帳を持っているのが、一人前の売薬さんで、「帳主(ちょうぬし)」と呼ばれました。若い売薬さんは、「帳主」になることを夢みて、清貧に甘んじながら、諸国を廻るというきつい仕事を続けたといいます。

 先日、講師を務めている古文書講座で、売薬さんのことを話題にしました。私より10歳以上年下の参加者から、子どものとき売薬さんがくれた四角い紙風船で遊んだことがある…という話が出ました。山形の片田舎にいたときの思い出だそうです。

参考文献:「反魂丹の文化史」(玉川しんめい著 晶文社)

       「藩史事典」の富山藩の部分 (私=ハムが執筆 秋田書店)


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コメント

最近、仲間から、銭湯にケロリンの名が入った桶があることを教えてもらいました。

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【ハム先生】
過去には中学校、現在では都内・某私立高校と某女子大学で教鞭をとる。趣味も「日本史」「世界史」…? 歴史・文化・芸術…等々のジャンルで執筆していくよ!

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