2012-5-18

究極のリサイクル ~ミイラの利用

   
 去る3月3日の雛祭りの日の朝刊に、インカ帝国展(マチュピチュ遺跡発見100周年記念、朝日新聞社主催、3月10日~6月24日開催)に出品されるミイラのCT解析のことが載っていました。これを見て、私=ハム先生は、本家エジプトのミイラに関わる次のエピソードを思い出しました。

 エジプトでは、死後の世界への再生を願う信仰のもと、紀元前3000年ころからミイラが作られ始め、紀元後数世紀まで続けられました。そのミイラが、後の時代に強奪されたり、新たに粗製乱造されました。ミイラに商品価値が生まれたからです。その市場は日本であり、ヨーロッパでした。

 日本では、乾燥した遺体のことを「ミイラ」と呼びますが、その語源は「没薬(もつやく=カンラン科の植物から採集したゴム樹脂、香料・医薬品・防腐剤として用いた)ミルラ」と考えられています。要するにミイラは、医薬品として日本に運びこまれたようなのです。それを示す史料をいくつか紹介しましょう。

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『大猷院(だいゆういん=徳川家光の法名)御実記』正保元(1644)年12月28日の条
☞「この日阿蘭(オランダ)人が奉げた貢物は、自鳴鐘・珊瑚樹・・・みいら五匁・・」

『長崎オランダ商館日記』1652年2月26日の記述☞「大目付井上筑後守が発注した品、ミイラ 目方100匁・長い干葡萄 10斤・椰子の実 20箇・・・」

『オランダ船プリンセス・マリアン号の1833年の積荷リスト』☞「一、両面羅紗 六端
一、・・・一、ミイラ 五十五斤・・・」
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 そして、極め付きは『本朝医談』(奈須垣恒徳著、1822年)の「享保(1716~1736)より五・六十年前、みいらという薬流行して、歴々の大名も毎月三・四度ずつ五分七分(湯で割った割合か?)のむ。男女ともみいらのまぬ人なし」という記述で、さらに『本草弁疑』(遠藤元理1681年)では、「是れに二種類あり、俗に古手と云うは布目多く有、新渡は布なく質湿り(しつしめり)多し」というわけで、古代エジプトの本物のミイラと急造したミイラをきちんと区別しています。いずれにしろ日本では強壮剤として利用していたようです。ミイラの製造に使われた瀝青(れきせい=天然アスファルト)に薬用効果があったとも言いますが本当のところはわかりません。それにしても、みんなその素性を知ってたんでしょうかねえ。

 さてヨーロッパでも中世からルネサンス期にかけて、数世紀にもわたり、ミイラを原料とする薬が使われていました。民間薬としてミイラを使う風習は、かなり古くからアラビア人の間にあったようですが、それが、11~12世紀にヨーロッパに伝わったようです。ペリシャ人アビセンナ(980~1037)の書いたアラビア医学書『カノン』によれば、「(ミイラを使った)この薬は、膿瘍・潰瘍・発疹・打ち身・ノドの痛み・咳・しびれ・麻痺・吐き気・胃腸の衰弱・肝臓や脾臓の疾患・中毒に効く」すなわち万能薬であるとされています。

 またアレキサンドリアにいたユダヤ人の医者エル・マガーもしきりとミイラ薬をすすめたようです。この二人の活動がヨーロッパに伝わり、どこの薬店でも手に入るようなブームになりました。

 16世紀になると、ミイラ薬はもはや万能薬としてではなく、「胃痛・打撲傷・切り傷・皮下溢血」に対する特効薬ということにされました。ミイラの利用は日本でも確認される17世紀になっても続きましたが、取り締まりが始まり、18世紀にはあまり使用されなくなり、19世紀に入ると、全く後を絶ちました。

 実は、ヨーロッパでは、ミイラに別の重要な使い途がありました。それは、紙の原料に使えたからです。と言っても、それはミイラそのものではなく、ミイラに巻かれた布の方でした。

 紙に関する右の年表で、蔡倫の発
明以来、パルプの利用が始まるまで
の長い期間、紙の原料は、麻や木綿
のボロでした。

 そして、紙の利用が盛んになった中
世・ルネサンス期には、慢性的なボロ
不足となりました。そんなとき目を付け
られたのが、ミイラに使われた布でし
た。

 ミイラを覆った布など、いくらもないの
ではないかと思うかも知れませんが、
立派なミイラになると、主に亜麻(あま)
という布の総延長は、何と300~400mにもなるという試算もありますから、利用価値は十分でした。

 この時代、不潔なボロが原因で、伝染病が蔓延することもありましたが、そのときこそ、ミイラの祟りということにされました。そうでしょうねえ!

2012-5-7

日本史を英語で語る!

  
 約30年前のことです。私=若きハム先生は、オーストラリアのシドニー郊外のある6年制の州立高校(日本の中学と高校が一緒になったもの)で、現地の高校生に対する日本語学習を手伝い、その一環として、日本史を指導いたしました。3年間に5回おこなったこのボランティア活動は、それまで3年余り、英会話スクールでやってきた訓練の格好の修行の場になりましたが、あわせて、歴史教育のあり方を見直す機会でもありました。

 日本の中学3年生あたる9年生への英語による日本史の授業の概略を紹介しましょう。

● 日本の通史全体を扱うのにあてた時間は、なんと40分授業5時間だけでした。そのため、授業計画をどうするかが、まず工夫のしどころでした。

 私は、① 日本史全体が概観できる ② 各時代をイメージアップできる ③ 時代の転換のようすを理解できる という方針をたて、右のように授業を計画しました。この作業は自分の指導計画のあり方をしっかり見直す貴重な機会になりました。

● このような授業では視覚教材がとても有効です。
 私が一番頼りにしたのは、私も作成に参加した日本史用のトランスペアレンシー30枚でした。

● 歴史学習といえば、年表が必需品です。私は苦労して、特別に日本史の英字年表を作り上げました。
 もちろんその高校の日本語担当のオーストラリア人の先生に見てもらいました。(このような手続きをnative checkといいます。)汗の結晶ともいうべき年表は、下に掲載しましたので、ご覧のうえ、できれば利用していただきたいと思います。

● 各授業の感想を、簡単に紹介しましょう。
 【第1時】 土器や農耕の重要性についての反応は鈍かったが古墳には強い反応を示した。
   日本に旧石器時代があったことや中国との交流については、初めて学ぶ生徒が多かった。
 【第2時】 律令体制下の行政単位と交通路さらに平城京・平安京には興味を示した。
  東大寺の大仏についてはすでに知っている者が多く、製造法などについて細かい質問がで た。武士が古代に登場したことは、知らない者が多かった。
 【第3時】 金閣や銀閣にはついては、強い関心を示した。
  歴史上の天皇の地位や役割について質問が出始めた。南蛮人の意味には、驚いていた。
 【第4時】 豪州のシラバスにおける位置づけを考慮して、念入りに扱った。
  元禄・化政文化には特に強い興味を示した。年貢や百姓一揆について多くの感想が聞けた。
 【第5時】 この時代の豊富な内容と複雑な背景を1時間で扱うのは難しかった。
  第一次世界大戦や世界恐慌ついてさえ、よく知らない生徒が多かった。

● 授業のあと、理解度や関心度をみるアンケートを実施しました。日本に帰国後、同じ年齢の中学2年生にほぼ同じアンケートをやって、両者を比較してみました。驚いたことに日本の中学生の方が理解度・関心度とも劣っていました。実にショックでした。


2012-4-24

足掛けX年、丸Y年!


 世界史をたどってみると、戦争の連続であることに、すぐ気が付きます。しかし、期間において、イギリスとフランスが戦った「百年戦争」くらい長いものはありません。崩壊寸前だったフランスにジャンヌ=ダルクが現れ、戦いを勝利に導いたあの戦争です。

 この百年戦争は、1339年に始まり、1453年に終わっていますから、まさしく百年あまり続いたわけで、その期間が、戦争の名ともなっているわけです。

 そういう例が日本にもないかと探してみたところ、「十五年戦争」・「前九年合戦」そして「後三年合戦」の三つが見つかりました。おもしろいことに、全部戦いで、「百年戦争」同様、実際の長さと名称の間にちょっととした食い違いがありました。
 
では、順次そのへんを検討していきましょう。

 まずは、「十五年戦争」ですが、その始まりは、1931年9月18日に起こった柳条湖(りゅうじょうこ)事件です。これは、この日午後10時20分、奉天(現 シェンヤン)駅北方の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破された事件で、これをきっかけに日本の関東軍は、軍事行動をおこし、満州事変にまで拡大しました。

 一方、「十五年戦争」の終わりは、1945年8月15日の「ポツダム宣言の受諾」です。日本に無条件降伏を求めたこの宣言は、米・英・中三か国によって、7月26日出されました。そして、日本政府が黙殺するという声明を出したため、広島・長崎への原爆投下やソ連参戦へとつながっていきました。

 それでは、柳条湖事件とポツダム宣言受諾の間は、ほんとに十五年だったのでしょうか?
 計算すると、丸13年と341日で、足掛けでも14年にしかなりません。でも、十五年にしちゃうんですね。

 「前九年合戦」の場合は、話がずっと複雑です。この戦いの初めは、1051(永承6)にあった源頼義の鎮守府将軍としての奥州赴任で、お終いは、反乱をおこした俘囚長安倍氏が滅亡した1062(康平5)です。頼義は、国司に刃向う安倍頼時を従わせるために派遣されとりあえず目的は達しました。その後安倍貞任らの抵抗や頼義の子義家の奮戦などがあったのち、頼義は最後に、出羽の清原氏の援けを得て、安倍氏の鎮圧に成功しました。

 この一連の動きを、「前九年合戦」といいますが、単純に計算しても、初めからおわりまでに、12年かかっています。実際、『古事談』・『愚管抄』・『古今著問集』では、「奥州十二年合戦」と呼ばれています。一方、『保元物語』・『源平盛衰記』・『太平記』では、「前九年の役(えき=主に蛮族との戦いに使った表現)」とされ、歴史教育でも、長らくこの名称が使われていました。

 これには、いくつかの理由が考えられています。その一つは、源頼義が本格的に介入してから終わりまでは、だいたい9年だというもので、もう一つは、「奥州十二年合戦」が、次の「後三年合戦」を合わせた呼称であると誤解され、12から3を引いた9年を考え出したというものです。ほかにもいろいろあるようですが、このへんにしておきます。

 もう話題に入っていますが、「後三年合戦」足掛け5年に及ぶできごとでした。

 これは、前九年合戦のあと、奥羽最大の勢力となった俘囚長清原氏の内紛に陸奥守源義家が介入した戦いです。義家は苦労して、清原氏を滅ばしますが、この戦いは私闘とみなされたため、義家には恩賞は与えられず、陸奥守も解任となりました。
 「後三年合戦」のたった一人の勝者は、前九年以来多くの犠牲を耐え忍んできた藤原清衡(ふじわらのきよひら)です。清衡はその後100年続く奥州藤原氏繁栄の基礎を築き、世界文化遺産に登録された「平泉中尊寺金色堂」を残しました。

2012-4-12

Ms.MOTTAINAI(ミズ・もったいない)!


 昨2011年9月25日、アフリカのケニア出身のものすごく有名な女性が亡くなりました。

 ワンガリー・ムタ・マータイ(Wangari・Muta・Maathai)という方です。彼女は、アフリカの女性としては、初物(はつもの)づくしの人生をおくりました。早速、その一生をたどってみましょう。

 マータイさんは、1940年4月1日(これは、ハム先生の生まれる約3か月前のことです。)、ケニア中部のニエリの農家に生まれました。(その後の生い立ちは、調べることができなかったので、跳ばして、)アメリカのカンザス州のカレッジを卒業し、同じアメリカのピッツバーグ大学で修士号を、故国のナイロビ大学で獣医学の博士号を取得。1971年にはそのナイロビ大学の教授になっています。もちろん初の女性教授でした。付け加えますと、彼女はその後、日本の関西学院大学早稲田大学そして青山学院大学の名誉博士号を授与されています。

 彼女の真骨頂は、その後取り組んだ環境保護家としての活躍です。1977年、グリーン・ベルト・ムーブメントを設立。土壌の浸食と砂漠化防止のために、植林活動を展開しました。この組織は1986年、アフリカン・グリーン・ベルト・ネットワークに発展し、植林活動もアフリカ全土をカバーするものとなりました。

 彼女は、自分の理想を追求のためには、独裁政権下のケニア政府をも公然と批判しましたから、逮捕され、獄につながれることもありました。結婚の経験もありましたが、相手の男性から、意志が強くコントロールできないという理由で訴えられ、離婚しています。

 1997年のケニアの大統領選挙では、立候補しようとしましたが、所属政党内部の都合で断念しました。しかし2002年には、国会議員となり、翌2003年には、環境・天然資源・野生動物省の副大臣に就任、さらにケニア・マンジラ緑の党をつくり、その代表も務めました。

 マータイさんは2004年12月、アフリカ女性で史上初のノーベル平和賞を受賞しました。受賞理由は、「持続可能な開発」と「民主主義と平和」への貢献でした。

 マータイさんが、我が国でも有名なのは、『もったいない』という日本語を、ほぼ世界語にしたからです。ご存じだと思いますが。彼女は2005年2月、温暖化防止をめざした京都議定書の関連行事に参加するために来日し、10日間ほど滞在しました。

 そのとき、『もったいない』という言葉を知り、痛く感動しました。「ものを無駄にして、環境に悪影響を与えることを罪悪視すること」を端的にあらわす表現だったからです。彼女は、この言葉を国際会議などで、たびたび使い、 『MOTTAINAI』キャンペーンを展開しました。

 その『もったいない』ですが、広辞苑などによれば、
① 神仏や貴人に対して不都合・不届きである
② 過分のことで、畏れ多い

…といった意味でも使いますが、一番多いのは
③ そのものの値打ちが、無駄になるのが惜しい 
   
という意味での使い方だと思います。マータイさんが、「したり」と思ったのも無理はありません。

 その後も彼女は、2006年のオリンピックのトリノ大会で、オリンピック旗の旗手を務めるなどの活躍をしましたが、前述の通り昨年、ガンのためナイロビの病院で亡くなりました。大統領の発案で、10月8日ウフルの公園で彼女の国葬が行われました。「木を使わないでほしい!」という彼女の遺言に従い、遺体はガスで荼毘(だび)にふされたということです。こんな見事な終わり方もあるのですね。

 彼女のことを調べていて、私が考えたことが、二つあります。一つは、名前の「マータイ」が「もったいない」の「もったい」に似ていること。

 そして、もう一つは、まだまだお仕事のできる71歳という年齢で亡くなったことが、なんとも『もったいない』ということです。
 

2012-3-27

思い出のふみ便り


思い出のふみ便り ~壇ノ浦から備中高松へ

 すでに本欄でもお話ししましたが、私=ハム先生は、40歳代をそっくり含む12年間、ある全国紙に「歴史こぼれ話」というタイトルで、日本史のコラムを連載しておりました。そのとき経験した一人の読者の方との交流を紹介したいと思います。

 発端は『美しき滅亡』と題する次のコラムでした。

「富士川、一ノ谷、屋島の戦いで源氏に圧倒され続けた平氏は1185年3月、壇ノ浦でついに最後のときを迎える。

 二位の尼は、幼い安徳天皇を抱き、『浪のしたにも都のさぶろうぞ』となぐさめつつ、千尋の底に入水(じゅすい)された。 (中略) 水面(みなも)にかなぐり捨てられた平氏の赤旗や赤印は、『龍田川(たつたのかわ)の紅葉を嵐に吹きちらしたるごとし』。

 二位の尼のけなげさや新中納言知盛のりりしさ、周囲の色彩豊かな情景。このクライマックスを描く『平家物語』の作者の筆は冴えわたり、読む者を感動の世界に導いていく。

 平氏の滅亡を描いた美しい言葉の数々を、その昔琵琶法師がどのように語ったか知りたいと思うのは、筆者ばかりではないだろう。」

 ほどなく岡山県在住のMさんから、心温まるお紙をいただきました。新聞の折り込み広告の裏に丹念に線を引いて作った原稿用紙にすばらしい達筆で記されていました。

「…… 私は『歴史こぼれ話』を必ず読んでおりますが、今日はこれに『平家物語』が取り上げられていたので、これが私を有頂天にしてしまいました。 (中略) 歴史こぼれ話の終わりの言葉、『平氏の滅亡を描いた美しい言葉の数々を、その昔琵琶法師がどのように語ったかぜひ知りたいと思うのは、筆者ばかりではないだろう。』…筆者ばかりでなく、私もその一人であります。(後略)

 早速私は、お礼の手紙を書き、それに対しMさんから返事が来るということで、文通が始まりました。
 約半年後私は、コラム「蟻の熊野詣」の現地調査を思い立ち、そのことを伝えるMさんへの手紙の末尾に、岡山まで足を伸ばしても良いのですが、そちらで面白いところがあったらご紹介いただけないでしょうか?」と書き添えました。Mさんからすぐに、「備中高松城があるので、何でしたらご案内しましょう。」という返事がきました。
 こうして、実現した現地調査の結果生まれたのが、次の『清水宗治自害之址』というコラムです。
                   ※清水宗治(しみず むねはる)…備中高松城・城主

「天正十(1582)年六月、羽柴秀吉は三万の軍勢をもって、備中高松城を包囲していた。城は188ヘクタールの人工の湖水の中で孤立しており、落城も間近だったが、秀吉軍は毛利方の吉川元春や小早川隆景軍とも対峙しており、楽観は許されなかった。

 六月二日未明、本能寺の変がおこった。秀吉にとって幸運だったのは、この情報を高松城に伝えようとした使者二人までもが、秀吉陣に迷い込んで来たことだった。

 秀吉はただちに、毛利方の僧を介して講和交渉に入った。条件は、頑強に抵抗してきた高松城主清水宗治の死とされた。信長の運命を知らなかった宗治は、城兵の安全と毛利家の安泰のため、湖上に漕ぎ出した船の上で立派に自刃したという。

 高松城は、沼沢地に囲まれた平城(ひらじろ)で周囲との高低差はいくらもない。最近整備の進んだ城址には、タイトルの文字を刻んだ石碑などがあり、堀には、宗治の生き方を思わせるハスの花が咲いていた。秀吉の活躍ばかりが目立つこの時期の歴史も、吉備路(きびじ)でふりかえると別の感慨がある。なお本欄の取材には、高松在住の読者のご協力をいただいた。」

 もちろん、Mさんからすぐ手紙が届きました。

「寒の戻りもおさまり、日一日と陽の輝きも春らしくなって参りました。
 過日は御遠路御苦労様でございました。史蹟の知識に乏しく案内板だけが頼りの心もとない御案内で、決してお役に立てたとは思っておりませんが、一見野原の一部の様な殺風景な城あとが、このやうな美しい文章で綴られ、昔を今に蘇ったかと思うと感無量であります。

 『美しき滅亡』を読んだ時と同じ感動を覚えつつ読ませて頂きました。紅一点のハスの花が情景を一層美しいものにして呉れます。有難うございました。(後略)

 このお手紙に対する私の返事を最後に、Mさんとの文通は終わりました。しかし、本稿で取り上げた二編のコラム以上に、文通が私には素晴らしい思い出になっています。

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【パスナビ編集部からの「蛇足」】

羽柴秀吉の「水攻め」、そして「中国大返し」でも知られる『備中高松城』についての説明は、こちらをご参照ください。
 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%9F%8E_(%E5%82%99%E4%B8%AD%E5%9B%BD)


清水宗治(しみず むねはる)」については、こちら。
 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AE%97%E6%B2%BB

2012-3-16

緑の大江戸


 我が町・東京は緑が少なく、砂漠のようだなどと言われることがあります。本稿執筆にあたり、まず緑の豊かさを象徴する公園の広さを調べてみました。

 1956年に制定された「都市公園法」によれば、住民一人あたりの公園面積は、6㎡以上とされています。この基準は、1993年に10㎡に改正されました。これに対し、実際の東京の公園面積は、1995年3月時点で、わずか2.8㎡しかありません。
 これは、ロンドンやニューヨークの20㎡余りに遠く及びません。そうなんです。私自身、両都市を訪れ、ハイドパークやセントラルパークの広大さに、びっくりした覚えがあります。

 この東京ですが、江戸時代には、世界有数の緑豊かな都市でした。なぜでしょうか。…ということで、本筋に入りましょう。

 まず江戸には、300近い大名の屋敷がありました。各大名は、格に応じて幕府から、3~6か所の上屋敷・中屋敷・下屋敷が与えられました。その場所は主に、今なら超都心の大名小路・西の丸下・外神田・霞が関の周辺でしたが、その多くが未整地でした。各大名は、土地を均(なら)して平らにして屋敷を建て、池を掘り、土を盛って築山とし、敷地一帯に木を植えました。
 幕府の命令があれば、ただちに屋敷を明け渡して、他に移転しなければなりませんでしたが、大名たちは、特に寛永(1624~1644年)のころ、屋敷や庭の華麗さを競ったといいます。

 また、幕府直参(じきさん)の旗本も、それぞれ土地を与えられました。これら、おそらく数千に及ぶ屋敷には、規模の差はあっても、庭園が造られていました

 さらに、小身(しょうしん=身分の低い武士)の御家人は、組屋敷(くみやしき)を作り、まとまって住みましたが、必ず庭園を作り、内職として植木栽培を行いました。

 廃藩置県を実施する前の明治2(1869)年に行われた調査によれば、江戸(もちろん、すでに東京になっていましたが)の武家地は、全市街地の実に68%を占めていました。そこにたっぷり庭園があったのですから、緑が豊かだったとしても、不思議ではありませんね。


2012-3-7

「ヤマトタケル」

「ヤマトタケル」

 日本古代の英雄「やまとたけるのみこと」のことで、漢字表記は、古事記が「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」となっています。第十二代景行天皇の皇子で、幼名「小碓命(おうすのみこと)」、双子の兄が「大碓命(おおうすのみこと)」です。
 このたび、桑名に単身赴任中のわが息子に愛車で出動してもらい、長年の念願だった「みこと」ゆかりの伊吹山(いぶきやま 標高1377m)と二か所の墓所・神社などを訪れることができました。

 ヤマトタケルの一生をたどってみて、私が興味を覚えるのは、その活躍の前半と後半の性格の相違と、古事記と日本書紀の人物像の違いです。以下、そのへんを対比してみたいと思います。各項目で、まず古事記の記載を述べ、茶色の文字で日本書紀の扱いに触れます。


○ 生い立ち
 景行天皇の第三皇子として誕生。不思議なことに、「ヤマトタケルの曾孫が景行天皇の妃となり、子をもうける」という記載もある。
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 景行天皇の第二皇子として誕生。さらに、「幼くして雄略の気があり、成長して容貌が魁偉(かいい=人並みはずれて大きく立派なさま)で身の長一丈(いちじょう=約3m)、力能く(かなえ=食物の煮沸容器、普通3足)あげたまう。」と描いている。
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ハム先生「車で、いなべ市藤原町を通過中、その『』なる地名がありました。」

○ 双子の兄殺し
 父である景行天皇の所望した美しい姉妹を我が物とした大碓命が父の前に姿を現わさなくなった。父から「兄に食事のとき同席するように伝えよ。」と命じられたヤマトタケルは結局、兄の手足をつかみ折り、菰(こも)につつんで投げ捨てたという。
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記載なし。後述するように、兄はヤマトタケル東征のとき、生きて登場する。
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○ 熊襲(くまそ)征伐
 天皇の命により九州に赴いたヤマトタケルは、美少女に扮して新築祝いの席に紛れこみ、まず兄の建(タケル)、ついで弟の建を刺し殺す。弟は死に臨み、ヤマトタケルの武勇を讃え、「倭建命(ヤマトタケル)」の名を献ずる。
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ほぼ同じ記載に加え、ヤマトタケル、御年16歳とある。ただし討った相手は「川上のたける」一人のみ、献じられた名の表記は「日本武尊」である。
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ハム先生「身の丈3mの偉丈夫がよく美少女に扮することができましたなあ!」
ハム先生「ヤマトタケルが、熊襲建を討った様子を描いた絵馬が加佐登(かさと)神社の拝殿にございました」

○ 出雲征伐
 九州からの帰路、ヤマトタケルは、出雲に寄り、出雲建と親しくなるがある日、太刀合わせをして殺してしまう。あらかじめ相手の太刀を偽物と交換しておいたという。
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記載なし。帰路、吉備や難波で邪神を征伐し、水路・陸路を開いたという話はある。
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ハム先生「これまでのヤマトタケルは、荒々しく狡猾さも目立ちますなあ。が、これからは、悲劇の英雄になっていきますぞ!」

○ 東征を命ぜられる
 西征から帰ってすぐ、景行天皇はヤマトタケルに東の蛮族を討つように命じる。ヤマトタケルは、叔母の倭姫命(やまとひめ)を訪ね、「父は自分の死を願っているのか?」と嘆く。倭姫命は、伊勢神宮にあった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と袋を与え、「いざというときには、これを開けなさい。」と言った。
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初め、大碓命が東征の将軍に選ばれたが、怖気づいて逃げてしまったので、ヤマトタケルが、我こそと名のりを上げる。天皇は、これを讃え、皇位を与える約束をし、吉備氏などをつけて送り出す。ヤマトタケルは、伊勢に寄り天叢雲剣を得る。
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ハム先生「兄大碓命は生き延びてござったか、ヤマトタケルを讃える役まわりとして。」

○ 草薙剣(くさなぎのつるぎ)となる
 相模国で、国造(くにのみやつこ)に荒ぶる神がいると欺かれ、火責めにあったヤマトタケルは用意の剣で草を掃い、叔母から貰った袋にあった火打石で迎え火を焚き、逆に相手を焼き尽くしてしまう。その地は「焼津」という名になった。
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場所は駿河となっているが、同様の記載あり。ただ、火打石は、叔母から貰ったものという説明はない。
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ハム先生「天叢雲剣改め草薙剣は結局、天武天皇の勅命により、後に熱田神宮に奉祀されました。」

○ 弟橘姫(おとたちばなひめ)の入水伝説
 相模から上総(かずさ)に渡ろうとしたとき、走水(はしりみず=横須賀)の神が荒波を起こし、ヤマトタケルは進退窮まった。そのとき、后の弟橘姫が、入水(じゅすい)すると波はおさまった。ヤマトタケルは、「相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけてくださったあなたよ」という歌を詠み、7日後に流れ着いた姫の櫛を祀る御陵を作った。
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同様の記載に加え、「こんな(相模の)海など、ヒト跳びだ。」と豪語したため、神の怒りをかったことが明記されている。ただ、弟橘姫をしのぶ和歌の記載はない。
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○ 東国平定
 足柄峠の神を蒜(ひる=ネギ・ニンニクなどの総称)で打ち殺し、四阿嶺で、弟橘姫をしのんで「吾が妻よ!」と三度なげき(以来、東国を「東」あるいは「吾妻」と呼ぶことになった。)、甲斐の国の酒折(さかおり)宮で連歌の発祥となる歌を詠み、科野(しなの=信濃)を経て、尾張に入る。
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上総から海路で北上し、北上川周辺にまで至っている。陸奥平定後、甲斐酒折宮で同様に歌を詠み、上野を巡ってから、鳥居峠で「吾が妻よ!」となげき、さらに信濃の坂の神を蒜で殺し、尾張に至る。
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○ 伊吹山ものがたり
 素手で伊吹の神と対決しようとしたヤマトタケルの前に、白い大猪が現れる。命(みこと)は、これを神の使いに過ぎないと考え無視する。しかし、実は神自身の化身であった。そして神が降らせた大氷雨(おおひさめ)によって、命は病身となってしまう。山麓の居醒めの清水(関が原か米原)でやや正気をとりもどすが、弱った体で大和をめざし、当芸・杖突坂・尾津・三重村と進み、能煩野(のぼの、現:亀山)に至り、「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし(ハム先生訳「大和はこの国切っての素晴らしい所だ 重なりあう青い垣 山に囲まれた大和 なんて美しいのだろう」)をはじめ4首の国偲びの歌を詠み、一生を終える。
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井吹の神は大蛇となって現れる。泉の表記は「居醒泉」、終焉の地の方は「能褒野(のぼの)」となっている。死去の御年30歳とあるが、国偲びの歌は登場しない。
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○ 白鳥伝説
 倭建命死去の知らせを聞き、大和から后や御子たちが終焉の地を訪れ、陵墓を築いてその周囲を廻り歌を詠う。すると命は八尋白智鳥(やひろはくちどり=大きな白鳥)となって飛び去る。命の留まった河内の志幾にも陵墓を築いたが、命はそこからも去っていった。
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父・景行天皇は深く悲しみ、百官に命じて能褒野に陵を造るが、尊(みこと)は白鳥となり、衣だけを残し、大和を指して飛び去る。能褒野に加え、白鳥の飛来した大和弾原(奈良県御所)と河内古市(大阪府羽曳野)にも陵を築いたが、白鳥はさらに天に向う。
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ハム先生「加佐登神社近くにある白鳥塚は、円丘の直径が77メートルもある帆立貝式古墳でした。また、能褒野の御墓は、全長90メートル、実に立派な前方後円墳でした。」


 以上、記紀の記述を対比しながら、ヤマトタケルの一生をたどってきましたが、二つの史書の特徴を次のように考えることができるかなと思いました。

 それは、古事記が、ヤマトタケルという英雄を主人公にすえ、浪漫的に人間くさく描いているのに対し、日本書紀の方は、ヤマトタケルを取り上げながら、実は古代の天皇の権威づけを試みているということです。

 AD712年成立の古事記と720年成立の日本書紀。8年の隔たりが二つの史書の性格に大きな変化をもたらしていることを、ヤマトタケルから告げられた思いがします。

 今回の探訪をきっかけに、今後、東国にも散在するヤマトタケル伝説の地を訪れてみたくなりました。


2012-2-22

高麗芝とクローバー


 公園や運動場などによくある芝生は、芝が一面に生えた場所のことです。絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたように見えるのは、人工的に植えて養生しているからで、自然の状態ではもちろん、思いつくままにバラバラに生えます。

 芝は、日本芝西洋芝に大別されますが、日本芝を代表するのが、「高麗芝(こうらいしば)」です。本高麗とも呼ばれ、本州から九州の各地に自生しています。
 生育に適する温度は摂氏30度と高いので北海道では見ることができません。葉の丈は、4,5~11cmで、踏まれても耐えてくれるので、公園を始めサッカー場やゴルフ場などで使われます。日本芝にはほかに、野芝(単にシバともいいます。)、姫高麗芝、ビロード芝などがあります。

 さて、次はクローバーのことです。クローバー(=英語で Clover )は、マメ科シャジクソウ属の多年草の総称ですがわが国では、一般的には「シロツメクサ」を指すことが多いようです。クローバーは、日本だけでなく、北半球および南アメリカやアフリカに多くの種類が分布しています。アイルランドでは、三つ葉のクローバーが“国の象徴”になっています。

 茎は地をはうように長く伸び、葉は普通小葉3枚一組ですが、まれに4枚の場合があり、「四葉のクローバー」として、珍重されます。私も子どものとき、何度か「四葉のクローバー探し」に挑戦しましたが、見つけた憶えがありません。

 クローバーは、5~9月、茎の先に小さい花が密集した状態の花序(かじょ=花の並んだ状態)を咲かせますが、そこから採れた蜂蜜は生産量で他の花のものを圧倒しています。

 ここまで読んだ方の多くが、「歴史ブログで、なぜ植物の講釈をするんだろう」と思っておいでのことと存じます。それはですね、両者に共通する、次のような由来があるからなのです。

 まず「高麗芝」ですが、名前からも「朝鮮半島」ゆかりの草であることが、想像されます。事実、1980(明治23)年発行の『日本園芸会雑誌』に次のような記事があることを、私も昔から知っています。

「右、高麗芝ハ今ヲ距(へだた)ル二百有余年前、寛永年間(1624~1648年)、朝鮮ヨリ日本国へ渡来ノ陶器ノ荷物中へ組入レ渡リ来タルヲ、嘉平次ナル者之ヲ繁殖シ、当今ニ至ル迄専門ノ業トス、故ニ高麗芝ノ名アリ

 これによれば、高麗芝は、陶器の破損を防ぐための“つめもの”として、朝鮮よりわが国に伝来し、さらに初めて栽培されたことになります。この「つめもの」としての役割は、クローバーにも共通しています。

 クローバーは、1846(弘化3)年、オランダから幕府に献上されたガラス製品の破損を防ぐ緩衡材(かんこうざい=破損を防ぐクッションの役割を果たすもの)として、詰められていたことから、「詰め草」と名づけられたということなのです。

 上記の二つの由来は面白い共通点ですが、無粋を覚悟で検討を加えたいと思います。

 まず、高麗芝の方ですが、日本芝の代表として古来、日本の広い範囲に自生しており、万葉集や日本書紀にも記述があるといいます。また、平安時代に成立した『作庭記』にも造園材料として取り上げられているようです。
 ということは、江戸時代前期に朝鮮半島から渡来したことで、存在が初めて認識されたと考えるのは、無理そうです。

 そして、「詰め草」ことクローバーの方ですが、こちらは、献上された年まで特定できる話で、クローバーの別の日本名として使われ始め、今日に至ったわけで、まあ、信頼していいかなぁ と思います。

2012-2-13

「ララ」物資!


 私=ハム先生が小学校に入学したのは、1947(昭和22)年4月のことですが、それからほどなく、学校給食が始まりました。自宅からそれぞれ持参したお椀に一杯ずつ食べ物が支給されるもので、その後実施された、一食分をしっかり提供する「完全給食」と区別して、「部分給食」と呼ばれていました。

 この部分給食の主役は、脱脂粉乳を戻したミルクで、ときどきケチャップの入ったシチューみたいなものも出ました。飢えていた我々にとって、貴重な栄養補給だったはずですが、匂いも味も苦手で、給食の時間は、とても苦痛でした。同じ思いをした仲間はたくさんいたようです。下校時に、残した給食の入ったお椀入りの布ぶくろを、そろそろ持ち帰る姿を、よく見かけましたから。

 ほんの時々ですが、いやに苦味のある缶詰のジュースが出ることがありました。これは、(苦味があるといっても)夢みたいなご馳走でした。みんな歓声を上げ、大事に大事にいただきました。

 一度抽選にあたって、それまで見たこともなかった、ライトブルーのシャツと編み上げ靴を支給されたことがあります。シャツは利用しましたが、靴の方は、処分され、我が家の食料に変身したはずです…。

 以上の品物が、「ララ物資」と呼ばれていたことは、小学校低学年であった私でも知っておりました。今回は、そのお話です。

 「ララ=LARA」とは、“Licensed  Agencies  for  Relief  of  Asia (アジア救援公認団体)”の大文字で示した頭文字をつらねた名前です。日本に救援物資を送ろうとした団体ですが、その成立には、米国在住の日系の人々の、並々ならぬ努力がありました

 盛岡出身の浅野七之助氏(1900~1998)は、第二次世界大戦後、日系人の権益回復に努力した人物ですが、極度の物資不足に襲われた故国の窮状を救うべく、救援活動をも展開しました。

 彼は、1945年11月、まず「日本難民救済有志集会」を開くとともに、日本語新聞『ロッキー新報』に「故国の食料危機重大」なる記事を載せ、運動を盛り上げていきました。

 翌1946年1月、早くもサンフランシスコの日系人から寄せられた寄付金で、物資を購入し、「海外事業篤志アメリカ協議会」を通じて日本に送ろうとしましたが、実現しませんでした。そこでさらに、陳情を続け、1946年6月ついに、大統領直属の「救済統制委員会」に、「LARA」を公認団体として認めさせることに成功しました。

 救援物資を満載した第一船ハワード・スタンペリー号(他の呼び名も見かけましたが、横浜新港埠頭に2001年に建立された「ララ物資記念碑」のものを採用しました。)が、横浜港に到着したのが、1946年11月30日関係者の期待通りその年のクリスマスに間に合ったことになります。まことに見事な手際でした。

 長い航海を考え、物資の中心は、脱脂粉乳(牛乳から脂肪分と水を取り除いたもの。水分を戻し、加熱して飲料としました。)・缶詰そして衣類でしたが、医薬品・石鹸・靴・裁縫材料、さらに変わったところでは、生きた乳牛や山羊なども含まれていたといいます。ハム先生が、いただいたものがしっかり入っていますね。

 その後の動きをみますと…、
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1946年12月24日 東京の永田町小学校で、ララ物資の贈呈式、実施
1947年7月31日 衆議院本会議で、亜細亜(アジア)救援公認団体に対する感謝、決議
1949年  ユニセフ(国連児童基金)から贈られた脱脂粉乳による給食、開始
1950年  アメリカから贈られた小麦粉を使った完全給食、開始
1952年 ララ物資、終了
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 こうして見ていきますと、「ララ物資」関係のできごとはほとんど、ハム先生が小学生だった時期に起こっていることに気づきます。あまり特別な意味はないと思いますが。

 それから、さらに余談ですが。本稿を執筆しながら私は、あるなつかしい歌を、つい口ずさんでしまうので、困りました。それは、「ラ・ラ・ラ 紅い花束 車に積んで 春が 来た来た 丘から町へ スミレ買いましょ あの花売の かわい瞳に 春の夢」という歌詞の『春の歌』(昭和12年 日本放送協会・国民歌謡 喜志邦三作詞、内田 元作曲)です。

2012-1-30

「広軌」と「狭軌」


 大量輸送機関として、200年近く前に登場し、今も進化を続ける鉄道は、英語で“Railway”や“Railroad”というように、「レイル」という「軌道(きどう)」の上を、車輪を転がして走ってきた交通機関です。その左右のレイルの内側の間隔を、 「軌間」=“Track Gauge ”あるいは、単に“Gauge=ゲージ”といいます。


 国際的な「標準軌=標準となるゲージ」の幅は,1,435mm(1メートル43センチ5ミリ のことですよ!)です。これは、大昔のローマ時代の馬車の車輪の幅からきているともいいますが、蒸気機関車の父、イギリスのジョージ・スチーブンソンが、技術者として働いていた炭鉱鉄道のゲージを、イギリス議会が標準軌としたことで、決まりました。


 標準軌より広いものを、「広軌=Broad Gauge」といいます。その例として、旧ソ連各国やモンゴルなどの「1,524mm」のもの、インド・パキスタンの「1,676mm」、すでに廃止されましたが日本の琵琶湖疎水インクラインの「2,743mm」などを上げることができます。

 ナチスドイツには、「3,000mm」の巨大鉄道を敷く計画がありましたが、実現しませんでした。

 一方、標準軌より狭いものを、「狭軌=Narrow Gauge」といいます。遊園地のミニ鉄道を持ち出すまでもなく、その例はいくらもあります。例えば、東南アジア・ドイツ・南アメリカの一部に、「1,000mm」のものがあり、「メーターゲージ」と呼ばれます。「なるほど!」ですね。そして、世界の多くの軽便鉄道が、「762mm」です。日本で「狭軌」というと、大抵この幅だそうです。さらに、この幅が「2フィート6インチ」であるところから、「ニロク」とか、「ニブロク」の愛称もあります。では、「ニロク」が出たところで、日本の鉄道のゲージを取り上げていきましょう。

 1872(明治5)年、新橋~横浜間に敷かれたわが国初の鉄道のゲージは、「1,067mm」でした。そして、その後日本全体をおおっていった旧国鉄(=日本国有鉄道)では、紆余曲折はあったものの、すべてこのゲージが採用されました。
 なぜ、国際標準軌にしなかったのでしょう?

 まず考えられるのは、明治政府高官の認識不足や資金不足、さらには、他の国が日本に車両を持ち込んでも使えないようにしたといった軍事的理由もあったかも知れません。「1,067mm」が、国際標準軌の「1,435mm」と「ニロク」のほぼ中間であることに、理由が隠されていると考える人もいます。旧国鉄が国際標準軌を実現させたのは、なんと、1964年の東海道新幹線開通のときでした。

 ゲージのことで話題性があるのは、私がよく利用する(首都圏を走る) 「京浜急行」「京王線」です。京急は1899年に「六郷橋」と「川崎大師」を結んだ「大師鉄道」が母体ですが、最初から国際標準軌を採用し、その後の変遷にもかかわらず、同じゲージを守って、今日に至っています。

 一方、京王線のゲージは、ユニークな「1,372mm」です。これは、路面電車の登場前に東京の街を走っていた馬車鉄道のものです。京王線の前身は、1915(大正5)年に開通した「京王電気軌道」ですが、馬車鉄道を引き継いだ東京市電(現 都電)との乗り入れのため、東京のオリジナルゲージともいうべき「1,372mm」が採用された訳です。
 日本では主に現JRの「1,067mm」を標準軌とする考え方もあります。これに従えば、京急や京王線のは、広軌ということになりますね。

 この二つの鉄道のゲージは、他よりぐっと広いのですから、さぞ車体も大きいと思うでしょう? ところが、京王線の丈は確かに高いようですが、他のサイズはさほどではありません。私は、上りと下りの線路の間隔が、ゲージに見合うほど広くないためではないかと推測しているのですが、どんなものでしょう? ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ、本ブログにコメントしてください。



プロフィール

【ハム先生】
過去には中学校、現在では都内・某私立高校と某女子大学で教鞭をとる。趣味も「日本史」「世界史」…? 歴史・文化・芸術…等々のジャンルで執筆していくよ!

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