2010-8-25

ロシアの日本語学校

 1700年前後に君臨し、「帝冠を戴いた革命家」ともいわれるピョートル1世〔1672~1729、在位1682~1725〕は、北太平洋地域の経営にも熱心で、その大規模開発のためには、日本との直接の交流が必要だと考えていました。彼は1705年、冬宮(ロシア皇帝の冬季の王宮)が現存し、ロシヤ帝国の首都であったサンクトペテルブルク(一時、レニングラード)に、日本語学校を創設し、数名の青年に日本語習得を命じました。教師は、「デンベイ」という名の日本人でした。

 口述され、ロシア語に訳された『デンベイの話』によれば、彼は、アサカ(大坂=大阪)生まれ、30隻の船団の一隻として、インド(江戸)に向けて航海中、暴風にあって、28週間も漂流し、カムチャッカのクルーリ人の居留地に着いた16人のうちのただ一人の生き残りでした。ピョートル1世は、デンベイに直接謁見し、日本語教師という称号を与えたといいます。

 1714年、サニマ」(三右衛門?)という日本人がサンクトペテルブルクに送られてきました。サニマは、その4年前、やはりカムチャツカに漂着した10人の日本人の中の一人でした。彼はデンベイの助教を務めました。

 1729年、19人乗り組みの薩摩の船がカムチャッカのロパトカ岬に漂着し、「ゴンザ」「ソウサ」の二人だけが、生き残りました。彼らは1733年、サンクトペテルブルクに送られ、ロシア語を学習したのち、日本語教師になりました。ここに、デンベイ・サニマの死後、中断していた日本語学校が復活しました。

 当時、ゴンザは10代前半、サニマは30代なかばだったようです。特にゴンザは、『日本語簡略文法』と邦訳できるロシア初の日本語の文法書を残すほど優秀でしたが、21歳くらいで亡くなりました。

 1745年に、「イガチ」なる日本人が、日本語教師になったという話もあります。前後の事情から、この人物は、南部藩出身の竹内徳兵衛の一団のうちの一人「利八」だった可能性があります。

 最後は、有名な大黒屋光太夫(1751~1828、ロシア滞在1782~1792)のことに触れましょう。光太夫は1782年、千石積の神昌丸に船員16人とともに乗り組み、伊勢の白子(しろこ)から江戸に向けて出帆しましたが、大時化(しけ)にあい、7か月の漂流ののちアリューシャン列島の小島にたどり着きました。彼は約6年後、サンクトペテルブルクに行きますが、その間帰国嘆願書を再三提出しています。博物学者キリク・ラクスマンの力添えやエカテリーナ2世の配慮もあり、彼はキリクの息子で、第一回対日使節を務めたアダム・ラクスマンに伴われて日本生還を果たしました。この光太夫の船員のうちの二人は、日本語教師となり、ロシアに永住しました。

 ロシアの国策を背景にした日本語学校は、1816年に完全に閉鎖されました。ロシアの関心がヨーロッパに向かったのと、日本語教師の補充がきかなかったのが、その理由です。

 本稿作成にあたり、1966年から約2年間、「文藝春秋」に連載された井上 靖氏の『おろしや国酔夢譚』を読み返しましたが、あらためて氏の勉強ぶりに驚嘆いたしました。


【補足】「おろしや国酔夢譚」は『文春文庫』に収録。1992年には映画化された。映画化の際に『徳間文庫』からも刊行。

2010-8-11

九千年は、長すぎる!

 今から、かれこれ五十年も前の話です。

 ある冬の夜、東京の山手線「新大久保駅」のそばにあった資源科学研究所の和島誠一研究室は、二冊の科学雑誌をにぎりしめた若者たち(和島先生が指導した、横浜の三殿台遺跡の発掘に加わった仲間です)の熱気でむせかえるばかりでした。

 雑誌には、放射性炭素の年代測定の結果、縄文早期の土器は、今から約九千年前に作られたことが、判明したという記事が載っていました。

 この放射性炭素による絶対年代の測定法は、アメリカ合衆国のリビーなる人物が開発したもので、遺跡から発見される動物の骨、貝殻、あるいは木材などの有機物の場合、生存中は大気と同じくC14を持っているが、死ぬとC14を放出し、C12に変わっていく。この放射能の半減期は、約5730年だから、C14を測定すれば、遺物の絶対年代がわかるというものでした。

 アメリカ合衆国で測定されたのは、神奈川県横須賀市の夏島貝塚から出土したカキ貝と木炭で、両方とも9240±500年前という結果が出てました。

 夏島貝塚は、三浦半島東岸の金沢湾口(わんこう)の夏島の南端部に位置する貝塚です。1950(昭和25)年と1955(昭和30)年に明治大学考古学研究室が発掘調査した結果、七層の地層からさまざまな形式の土器が出土し、縄文早期の編年研究に大きく貢献した遺跡です。もっとも古い形式は、当時日本最古の土器と考えられていました。

 その夜はまず、雑誌の記事の内容が検討され、ついで、活発な討論がなされましたが、最古の土器でも、せいぜい六千年前という、それまでの定説が、一挙に三千年もさかのぼることに戸惑う意見が、大勢を占めました。

 今では、九千年はおろか、一万二~三千年説が定着し、一万五千年説まで登場しています。あの夜のことも、すっかり昔話になってしまいました。

2010-7-27

解読不可能な暗号

 第二次世界大戦が、激しさを増した1943年、同盟関係にあったドイツから日本に、二隻の潜水艦(=Uボート)が寄贈されることになりました。そのうちの一隻が、ドイツ海軍の乗組員によって東南アジアの日本の勢力範囲まで、回航されたU511号です。

 この潜水艦には、1940年9月の日独伊三国同盟成立時から、ドイツに駐在していた軍事代表野村直邦海軍中将(のち大将、海軍大臣)が、便乗することになりました。

 野村中将は、他の追随を許さないドイツ通であり、その帰国は、日本の戦術にも大きな影響を与えるなど、重要な意味をもっていました。

 U511号は、目的地とされたペナンに着くまで長い期間、連合軍の哨戒圏(しょうかいけん=敵の攻撃を警戒して見張っている地域)を突破しなければならないため、野村中将の動きは、高度の軍事機密事項でありました。そして、日本の外務省としては、秘密裡(ひみつり)に野村中将の出発の確証を得る必要がありました。

 当時、日本の外務省と在独日本大使館の情報交換は、乱数表(らんすうひょう=0~9の数字を無秩序に並べた表)を用いた暗号電報に頼っていましたが、戦局の悪化にともない、さまざまな混乱がおこり、信頼できない状態に陥っていました。

 野村中将の動きを察知するために、外務省は、実に大胆不敵な連絡方法を採用しました。それはなんと、国際電話で堂々と日本語で話すというものです。ただし、使われたのは、日本人であっても、他の地方の人間にはわからない、早口の鹿児島弁でした。

 通話をしたのは、
外務省側:鹿児島県姶良(あいら)郡加治木村出身の人(暗号名は、「カジキ」)、
在独大使館側:鹿児島県日置(ひおき)郡吉利村出身の人(暗号名は、「ヨシトシ」
の二人でした。

 この方法は、野村中将出発前後、10数回行われました。では、最初のころの通話のようすを、吉村 昭氏の『深海の使者』(文春文庫)から引用してみましょう。

――――――――――――――――――――――――――
カジキサー、カジキサー(カジキさん、カジキさん)」

ヨシトシサー? (ヨシトシさんか?)」

カジキサー、ノムラノオヤジャ、ハヨ タタセニャ イカンガナ モ タッタケナ~?(ノムラの親爺、早く発たせなくては、いけないが、もう発ちましたか?)」

カジキサー。ヨシトシノオヤジャ(「ノムラノオヤジャ」という言い方をとっさに変えてます。) モ イッキタツモス。(カジキさん。ヨシトシの親爺は、もうすぐ発ちます。)」

             (中    略)

ヨシトシサー、ヨシトシサー。ヨシトシノオヤジャ モ モグイヤッタドカイ?(ヨシトシの親爺は、もう潜って行かれましたか?)」

モ モグリャッタ。(もう潜りました。)」
――――――――――――――――――――――――――

 アメリカの軍事情報部は、もちろん、これらの通話を傍受し、録音盤を作成して検討しましたが、しばらくは内容はおろか、どこの国の言葉かさえ、分からなかったといいます。


2010-7-16

“この間”の戦争!

“この間”の戦争!

 今でも、70代以上の方の多くが、太平洋戦争のことを、タイトルのように表現すると思います。私は、少し下の世代ですが、この言い方には、なじみがあります。


 昭和20(1945)年3月10日未明の東京大空襲のとき、板橋区の東南のすみにあった借家の二階の踊り場から、まるで火でできた畑のようになった下町のようすを震えながら見ていたのが、私のもっとも古い記憶です。そういうわけで、「この間の戦争」という言い方を、教員になってからも、相当長期間、抵抗なく使っていました。それを改めようとしたのには、きっかけがあります。

 今から30年も前になりますが、私は、戦後史(もちろん太平洋戦争のあとのことですよ。)の授業に役立てようとして、文京区の当時の勤務校で、保護者向けのアンケートを実施しました。その一部として、「戦後の主なできごとを、どれ程度覚えているか?」を問い、この部分は…

A)昭和6(1931)年~昭和10(1935)年生まれ(当時、49才~45才) 
   と

B)昭和16(1941)年~昭和22(1947)年生まれ(当時、39才~33才)

という、二つのグループの回答を対比しながら分析してみました。

「実感をもって覚えている」と答えた人のパーセンテージを項目別に例示すると、

 終戦の玉音放送(1945年)−Aグループ 71% 対 Bグループ % 、以下…

 朝鮮戦争の休戦(1953年)−Aグループ 43% 対 Bグループ 4% 、

 日米安保条約改定
(1960年)−Aグループ 46% 対 Bグループ 20% 、

 沖縄返還(1972年)−Aグループ 70% 対 Bグループ 59

…となり、起こった時期が古いものほど、両グループの間に開きがみられ、10才の年齢差が、体験や意識に大きな違いとなって表れることが、わかりました。


 私は、分析結果に、
 「今や、さらに10才若い世代も社会に出て、親や教師として、次の世代を教育しているが、彼らは、終戦直後の体験をもっていない。(中略)戦後30年の歴史は“身近かな歴史”といわれるが、それはあくまで、父母や教師にとって身近かであるに過ぎない。」
というコメントを添えました。


 そして、その4年後別に発表した別の文章で、
「(4年前のコメントも)もはや(さらに)訂正が必要なのかも知れない。最近私は、『この間の戦争』という表現を使わないようにしている。」
と断言しました。

 しかしです、今でさえ、ときに使ってしまうことがあります。一度口癖になったものは、直らないものですね。  

2010-7-9

古代のジグソーパズル

   
 すでに本欄でも取り上げたように、筆者・ハム先生は昔、考古学の研究に深く関わり、とくに縄文時代の住居址の発掘・調査には、何度も加わってきました。その際、つらいこと、面倒なことにたくさんあったはずですが、今では、嬉しかったことの方ばかり、思い出します。中でも興奮してしまうのは、復元可能な「完形土器(かんけいどき)」を掘り当てたときのことです。


 土器片は、現在の地表でも見つけることができますし、どういう訳か、黒土と赤土のあいだにある褐色土層にも存在します。しかし、完形土器はたいてい、住居址の床面(ゆかめん)に横倒しの状態で、つぶれて出土します。




 これを、丹念に写真にとり、測量してから、取り上げてきれいに洗い、発掘地点や発掘日などを、各土器片に注記するなど、あとの処理を行います。


 さて、発掘後の遺物整理は、うんざりするほど手間のかかる仕事ですが、完形土器の復元だけは、わくわくするほど楽しいものです。割れ目どおしが合わさって、次第に土器が出来上がっていく様子はまるで、立体的なジグソーパズルを解いてるみたいです。

 とくに、どうしても埋まらなかった部分に、別のところで見つ  
けた土器片がぴったりはまったときなど、歓声まで上げたく  
なります。
 似たようなパズルは奈良~平安時代の貴重な文字記録  
である木簡にもおこるようで、ある研究者は、平城宮址から  
出土した五つの木簡の断片が、みごとに一つにつながるこ  
とを発見したときの喜びが、研究を志すきっかけになったと  
述懐しています。

※写真・上(左):「縄文土器」
     上(右):「出土された状態の完形土器」(こちらは弥生土器)
     下:「平城宮跡出土の木簡」


2010-6-28

水のポンペイ!


 芦田(あしだ)は、広島県世羅(せら)郡南西部に源(みなもと)を発し、ほぼ東流して、福山市箕島(みのじま)で瀬戸内海に注ぐ、全長86キロメートルの河川です。
 この芦田川ですが、かなりの暴れ川(あばれかわ)で、洪水がおこると平野部の氾濫面積が広く、しかも出水は早く、減水は極めて遅いというわけで、とにかく治水しにくい川だったようです。福山市の西郊、この川の川床(かわどこ)にある草戸千軒(くさどせんげん)遺跡の形成には、このような川の特性が深く関わっています。 

  この地域は、もとここにあった常楽寺(現 明王院)の門前町そして港町として栄えていました。しかし、1620(元和6)年の大洪水で壊滅します。その後、福山藩主水野勝成(かつなり)の提防建設など、努力の甲斐もなく、承応・延宝年間の度重なる洪水で、町全体が放棄され、しだいに川底に埋もれていきました。江戸時代後半に成立した『備陽六郡志』という郷土地誌には、1633(寛文13)年のこととして、「洪水の節、青木ヶ端の向こうなる土手を切れば、忽(たちま)ち水押し入り、千軒の町屋とも押し流しぬ」とあります。

 こうして、川に埋もれた草戸千軒でしたが、昭和初期に行われた改修工事でこの川の流路が変わり、中世の町並みが、みごとに現れました。ほおって置けば、町は再び埋もれてしまいます。そこで、1961(a昭和36)年以降、発掘が続けられました。

 遺跡の層は、平安時代に始まりますが、室町後期の町割りの保存状態が、もっとも良く、町屋はもちろん、刀鍛冶の作業場、塗師(ぬし)の作った漆器、足駄(あしだや)の下駄(げた)その他の日常品が、それはそれはたくさん出土しました。
 まさしく、水が残した日本の「ポンペイ」の趣があります。出土品の多くに加え、町並みの60分の1の復元模型が、広島県立歴史博物館に展示されています。

 昔、社会人向けの歴史講座で、この「草戸千軒遺跡」を取り上げたとき、私がとくに興味もった、この遺跡の調査研究の経緯を年表にまとめてみました。

一部を紹介すると…

1926年   芦田川の改修工事始まる。かわらけ・五輪塔など、つぎつぎ出土。

1965年    石敷道路・橋、発見。町割り確認。

1989年    草戸千軒遺跡の出土品を中心とする広島県立歴史博物館が開館。

といった具合ですが、最後の記事は、僭越(せんえつ)ながら

1999年    東京から、歴史講座講師「○○ ○(ハム先生の本名)」氏、来館する。

といたしました。

 
(webサイトで広島県立歴史博物館の展示の様子がご覧いただけます)
⇒広島県立歴史博物館HP(常設展示室…「よみがえる草戸千軒」)
http://www.manabi.pref.hiroshima.jp/rekishih/

2010-6-15

さて、うちのご先祖さまは?―― 諸家譜ものがたり


 私は、10人ほどの仲間と、40年以上にわたって、近世史の研究会を続けていますが、その仲間が集まって話し合うとき、よく「しょかふ」という言葉が飛び交います。正式名を 寛政重脩諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)といい、徳川将軍家(しょうぐんけ)に拝謁(はいえつ)できた家柄の詳しい系図をまとめた本のことです。今の活字で印刷された刊本(かんぽん)になっているため、近世史を研究する際のまさしく「座右(ざゆう)の書」になっています。

 この「諸家譜」ですが、徳川幕府がはじめ、すでにあった「寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)」の増補を思い立ち、後に計画を変更して新たに本格的な系図本の作成をめざしたといいます。手順は次のように進めました。

 まず各家に、一族のおもに当主の生まれ、初見(初見=はじめてのめみえ)、元服、官職、公役(くやく)、善行、致仕(ちし=引退)、卒去(そっきょ=亡くなること)、法名などを書き出させ、それを係の者が、吟味して確かなものを採用しました。疑問のあるものは、一応そのまま載せますが、そのことを記すという厳密な態度さえとったようです。

 この大事業は、18世紀末に始まり、10数年の歳月をかけて、1812年に完成しました。原本は、1530巻もある大著で、私が持っている刊本は、昭和40年前後に続群書類従(ぐんしょるいじゅう)完成会が発行したもので、300~400頁の本編が22冊、それに索引4冊まで付いています。その内容を、諸家譜編纂事業の総裁を務めた堀田正敦(ほったまさあつ)を例に紹介しましょう。

 名前に続いて、彼が「村由(むらよし)」と「藤八郎」とも名のったこと、「摂津守(せっつのかみ)」や「従五位下(じゅごいのげ)」の地位についたこと、実は仙台藩の伊達宗村の八男であること、母は坂氏であることが書かれ、ついで本文に移ります。

 彼は、28歳のとき、近江の堅田(かただ)藩一万石の堀田正富(まさとみ)の養子となり、その女(むすめ⇒系図では、女性は単に「女」とだけ記してあります。)を室に迎えます。翌年、家督をつぎ、さらに初めて将軍家にまみえます。その後、前述の摂津守となり、大番の頭をへて若年寄にまでのぼります。また、将軍家の婚姻や若君誕生にともなう御用を務め、縮緬(ちりめん)、巻絹(まきぎぬ)、時服(じふく)などの褒美を何度も賜ります。さらに聖堂の再建では、老中松平定信の補佐役にまで抜擢されました。このあたり、順風万帆(じゅんぷうばんぱん)の武家人生に思えますが、直後に起こった紀伊家の失火騒ぎの際、病いによって登営(とうえい=幕府に出仕すること)に遅れることを同輩にも伝えてなかったことが、咎められ、一週間あまりの拝謁さしとめとなりました。

 彼の事跡は、ここで突然終わります。一世一代の大事業であった「寛政重脩諸家譜」編纂のことを記載できなかったことは、今もって残念に思っていることでしょう。

2010-5-31

壱岐・対馬から天山・崑崙へ


 山口県の下関と朝鮮半島南端の釜山(プサン)港の間に定期航路が開かれたのは、日露戦争の終わりを告げるポーツマス条約成立直後の明治38(1905)年9月のことでした。以来、太平洋戦争中、米軍の機雷投下によって中断されるまでの約40年間、この関釜(かんぷ)連絡船は、激動の時代を生きた人びとの数々のドラマを運び続けました。

 その旅客実績をみると、航路開設当初は年間数万人程度でしたが、次第に増加し、昭和17(1942)年には、300万人を越えました。この旅客数とともに日本と大陸の関係を物語るのが、就航していた船の名前です。

 定期航路開設時の船は、2700トン級の壱岐(いき)対馬(つしま)でした。ご案内のとおり、航路途中の日本の島の名前です。

 それが、韓国併合(1910年)後の大正2(1913)年から、朝鮮半島に存在した旧国名で、3000トン級の高麗(こうらい)新羅(しらぎ)となり、1922年には、ソウル(日本名「京城」)にある宮殿や庭園の名、景福丸徳寿丸が加わりました。

 そして、昭和11・12(1936・37)年には、7000トン級の金剛(こんごう)興安(こうあん)になります。両船は、長さ126メートル余り、日本の船としては始めて、冷暖房設備を備えていました。当時としては最速の23,1ノット(時速約42キロメートル)を誇り、約7時間で下関~釜山を結びました。

 さらに昭和17・18(1942・43)年には、8000トン近い天山(テンシャン)崑崙(こんろん)が就航します。

 このように船の名は、日本近海の島名から朝鮮半島へ、さらに金剛丸以降、崑崙丸までは、どれも大陸の山の名、それもだんだん奥地に向っています。まるで、日本の大陸進出の野望を物語っているようです。

 なかで興安丸は、戦時中は強制連行された朝鮮半島の人々を労働者として運び、戦後は中国や旧ソ連から舞鶴(まいずる)港に引き揚げ者や復員兵を運んだことで有名です。

 関釜航路はその後、1970年から再開されました。現在就航している船の名は、「はまゆう」「星希(ソンヒ)」というおだやかなものです。JTBの時刻表によれば、下関港19:00発で、釜山港に翌朝8:30着、ほぼ同じ時刻に釜山~下関の便(びん)もあります。


2010-5-18

謡曲とミイラ

「謡曲とミイラ」

 奥州藤原氏は、平安時代後期の約百年間、現/岩手県平泉で栄えた豪族です。都を遠く離れた地にありながら、金と馬の産出による豊かな財力を背景に高い文化を誇り、他に例をみない金色堂(こんじきどう)を今に残しています。

 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、清衡(きよひら)・基衡(もとひら)のあとをうけ、三代目として藤原氏の栄華をになった最後の当主です。
 保元2(1157)年、父死去により出羽・陸奥の押領使(おうりょうし=その地の治安を守る令外の官)を継ぎ、両国を管轄しました。そして、嘉応2(1170)年に、従五位下(じゅごいのげ=上級貴族の末席)となり、養和元(1181)年には平氏の推挙により、陸奥守(むつのかみ)・従五位上に任ぜられました。すでに挙兵していた源頼朝を背後から牽制(けんせい)するためだったようです。だから文治元(1185)に平氏が滅亡すると、頼朝の最後の攻撃対象となりました。

 戦いをしかけるには、正当な理由が必要です。秀衡が頼朝の追う源義経(よしつね)を保護したことが、その絶好の口実になりましたが、秀衡と義経の美しい人間関係は、謡曲「秀衡」にみごとに描かれています。

 さて、藤原三代の当主は、ミイラとなって金色堂の須弥壇(しゅみだん)に納められています。
…で、ミイラについて少々薀蓄(うんちく=深く、積み蓄えた知識のこと)を傾けてみましょう。

 ミイラとは、人間や動物の死体が乾き固まり、長くその形状をとどめているもので、人工的なミイラ作成の方法は、再生を信じた古代エジプトで発達しました。ミイラの名は、使用する没薬(もつやく)のポルトガル語の名である「ミルラ」がなまったものといわれます。これに「木及伊」の字をあてた中国では、3世紀に弥勒菩薩がこの世に出現する56億7千万年後まで肉体を保持しようと、入定(にゅうじょう)ミイラになろうとする信仰がおこり、日本にも伝わりました。
 湿気の多い日本では、なかなかミイラにはなれませんが、藤原三代や羽黒山などにミイラが存在します。なお、ミイラが外傷・打ち身・内臓疾患などにきく万能薬として、輸入されており、「男女ともミイラ飲まぬ人なし」(『本朝医談』より)という状態だったという話もあります。

 ミイラは、乾燥しているとはいえ肉体がそのまま残るわけですから、それを調べれば、いろいろなことが判明します。昭和25(1950)年の調査の結果、秀衡についてわかったことを列挙してみましょう。
=============================================
●「身長は、160cm、ややいかり肩の肥満体質」←当時としては、長身です。中尊寺にある復元人形をみると、胸のあたりにボリュームがないので、肥満体には見えません。

●「鼻筋が通り、下ぶくれの立派な顔」←ただ癇癪(かんしゃく)もちだったということで、人形のこめかみには、青筋があります。

●「重い歯槽膿漏(しそうのうろう)にかかっており、歯根が露出し虫歯もあります。」

● 「死因は、骨髄性脊椎炎もしくは、脊椎カリエス。血液型はAB型です。」
=============================================

これだけのことが分かっていながら、なお謡曲の幽玄の世界に浸れるか否かは、人によって意見が分かれるところでしょう。

 秀衡は、頼朝の攻撃の危機がせまるさなかの文治3(1187)年、義経のことを案じながら、死去しました。あとを継いだ藤原泰衡(やすひら)は、義経を死に至らしめたという汚名を背負い、釘による傷のある頭部だけのミイラが残されています。

2010-5-7

ミス白鳳物語

   「ミス白鳳物語」

 天武天皇14(685)年、飛鳥の山田寺で、美しい薬師如来の開眼供養(かいげんくよう=新しい仏像・仏画に眼を描き入れ、仏の魂を迎え入れること)が行われました。
 山田寺を建立し、大化の改新で活躍したのち、讒言(ざんげん=人をおとしめるため、事実を曲げて言うこと)により、その山田寺で一族もろとも自殺した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の追福を祈って鋳造された(聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)裏書』による)この像は、おおらかさと鋭さを兼ね備えた典型的な白鳳仏(はくおうぶつ)でした。




 美しい女性?は、平凡な一生を送れないようです。500年後、彼女の人生に最初の波乱がおきます。治承4(1180)年の兵火で焼失し、5年後に再建された興福寺の東金堂(こんどう)の本尊にと所望され、お付きの菩薩とともに堂衆(どうしゅう=雑役をつとめた下級の僧)により強奪されたのです。(九条兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』による)

 そしてさらに200年後の応永18(1411)年、興福寺の五重塔が雷火にあったときの類焼で、東金堂も焼失したとき、彼女は体を失い、頭部だけが現本尊の台座の下に安置されました。(台座内部の墨書による)


 それからまたまた500年後の昭和12(1937)、東金堂を解体修理した際、彼女は発見され、再びあでやかな微笑みを人びとに投げかけることになりました。


 それから70年余り、彼女は今、興福寺宝物館で、他の多くの国宝級の彫像を圧倒しています。頭部だけ、それも左耳と頭頂部を失っているのに、その美しさは、今も輝くばかりです。


 彼女に首っ丈の私は、毎年のように興福寺を訪れます。

プロフィール

【ハム先生】
過去には中学校、現在では都内・某私立高校と某女子大学で教鞭をとる。趣味も「日本史」「世界史」…? 歴史・文化・芸術…等々のジャンルで執筆していくよ!

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