異郷の墓標
昔、読んだ『NHK海外シリーズ オーストラリア』 (福島健次著 日本放送出版協会)には、オーストラリア西端のポート・ヘッドランドにある日本人墓地の写真が載っていました。草もまばらにしかない赤茶けた土の上に、「掘 八十吉」や「角 市松」などの漢字をきざんだ日本風の墓石が立っている風景です。明治初年に、そのあたりの海で天然の真珠貝を採る仕事に従事していた人たちのもので、キャプションにも「今は、訪れる人も少ない」と書かれていました。この写真に接したころは、ちょうど、リカルド・サントス楽団の「真珠採りのタンゴ( Pearl Fisher )」がヒットしていました。美しい曲の調べと日本人墓地の侘しさが、あまりにも対照的だったの強く記憶に残りました。
同じオーストラリアでも、カウラの日本人墓地の方は、実際に行ったことがあります。こちらは、周囲の環境もきれいで、手入れのゆき届いた芝生に同じ形をしたプレートが整然と並んでいました。カウラは第二次世界大戦中、捕虜収容所のあったところで、脱走事件で亡くなった日本兵が葬られています。ただ、プレートにある名前はほとんど、偽名なんだそうです。第二次世界大戦で、オーストラリアが日本の戦争相手国だったことを、私たちは、忘れてしまいがちです。しかし、シンガポールで1万3000人の豪州兵が日本軍の捕虜になったことや、ダーウィンの空爆・特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃などを記憶しているオーストラリア人は、たくさんいます。
私は横浜の町が好きで、よく散策します。そのたびに大抵は、山手の外人墓地を訪れます。ここは、あのペリー艦隊が来航したとき、事故死した水兵を埋葬したのが始まりだそうで、生麦事件で犠牲になったイギリス人商人C、L、リチャードソンなどの有名人の墓もたくさんあります。横浜を代表する名所のため、いつ行っても人でいっぱいです。私は外人墓地では、おそらく他の人と異なり、ポート・ヘッドランドやカウラの日本人墓地のことを思い浮かべます。異郷で亡くなり、その地に葬られた人たちは、自分の行く末を、どう感じているのでしょうか。
16世紀末から17世紀にかけて約20年間、長崎に滞在したイスパニアの商人アビラ=ヒロンが書いた『転訛(てんか)してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告』 (通称「日本王国記」)には、当時殺人を繰り返して、都を荒らし廻った15人の盗人(ぬすっと)の頭目が1595年、生きたまま油で煮られ、彼らの妻子など身内五親等までが処刑されたとあります。
また、この報告書をローマにもたらしたイエズス会の宣教師ペドロ=モレホンは、それに、
「処刑が行われたのは、前の年のことで、油で煮られた頭目(の一人?)は、Ixicavagoyen、その家族9~10人と兵士風の子分10~20人も 磔(はりつけ)などになった」
という註を書き入れました。
外国の人にもこのように注目された国際人・石川五右衛門はその後、浄瑠璃や浮世草子、歌舞伎などで繰り返し取り上げられ、話に尾ひれがついていきます。
まずタイトルの句は、この後「世に盗人の 種子(たね)は尽きまじ」と続きます が、これは松本治太夫が貞享年間(1684~1688年)に語った浄瑠璃『石川五右衛門』に出てくるもので、五右衛門の辞世の句とされています。
井原西鶴は、『本朝二十不幸』巻二の「我と身を焦がす釜が淵」で、五右衛門が一緒に釜煎りとなった我が子の苦しみを終わらせるため、その死を早まらせた」(「一子を我が下に敷く話」)ことにしています。また、近松門左衛門は、『傾城(けいせい)吉岡染』で、五右衛門を一流の剣客に祭り上げました。
これが歌舞伎では、一段と派手になります。
並木五瓶の作品『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』は、その決定版で、五右衛門は南禅寺の山門に立ち、盛り上がったツッパリ頭、黒地に金銀の縫い取り、赤い縁取りをした衣装、太いキセルをくわえた格好で、「絶景かな、絶景かな、春の宵は価(あたい)千両……」と、大見得(おおみえ)を切ります。
実際の南禅寺・山門は応仁の乱で消失し、五右衛門の時代には、まだ再建されていなかったことなど、全く意に介さないことなど、相当おもしろいです。
『三日坊主』!…広辞苑によれば、「飽きやすく、何をしても永続きしないこと。または、そういう人をあざけっていう語」とあります。
以前は、一大決心をして元旦から日記をつけ始めたのに、じきやめてしまう人のことを、『三日坊主』の典型として、よく話題にしました。かくいう私も、そんな人間の一人だと自負しております。
ところが一方に、何十年も日記をつけ続けた人たちも、厳然と存在します。その例を「暦記」という形式の日記が、数多く書かれた平安時代に求めてみましょう。
自筆本が残っているもので一番有名なのは、摂関政治の最盛期に栄華をきわめた藤原道長の『御堂関白記(みどうかんぱくき)』で、24年分(!)が伝わっています。長徳4(998)年から寛仁5(1021)年まで、道長が33才から56才まで書き続けたものです。最初は記述が簡略でしたが、長女の彰子(しょうし)が天皇のもとに入内(じゅだい)した頃から詳しくなったと言います。わかるような気がします。
この『御堂関白記』だって相当長いと思いますが、道長と同時代の藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』になると、道長より20年も前からつけ始め、10年余り後までつけたようです。藤原実資は、なかなか反骨精神があり、権力者・道長にも歯向かったと言いますが、60数年に及ぶ(!!)日記の執筆期間で、完全に道長を圧倒したと言えましょう。
『小右記』と似た名前の日記に、実資より約50年後に書かれた藤原宗忠の『中右記(ちゅうゆうき)』があります。この日記名は、宗忠の家名「中御門(なかみかど)」から「中」を、彼が“右大臣”になったので「右」を取り入れて『中右記』とされたということですが、この日記も52年にわたってつけられたようです。もちろん驚くべき長さですが、「小」右記より、「中」右記の方がやや短いのを知ると楽しくなります。
申し遅れましたが、『小右記』の方の藤原実資は、「“小”野宮」を名乗り、やはり「“右”大臣」になっております。
それにしても、平安貴族の皆さんの文才や忍耐力には、本当に頭が下がりますね。
『歴史を変えた気候大変動』(B.フェイガン:著 東郷えりか・桃井緑美子:訳 河出書房新社)は、読み終わりそうな今、“THE LITTLE ACE AGE :HOW CLIMATE MADE HISTORY 1300-1850”という原題は、直訳した方がよかったのでは…、思うことしきりです。初めから終わりまで、小氷河期の歴史、特に食料事情のことを克明に扱っているのですから。
…今回は、最初から脱線ぎみですね。
本筋に戻して、同書で扱う時代の最初のころに位置する「元寇」のことを、以前に文章にしたことがありました。やはり、気象と結びつけましたが。
いわゆる「元寇」は二度あり、三度目は中止となりました。
最初のものは、起こった1274年の和年号に因んで『文永の役』といいます。この年の正月、元の皇帝フビライ・ハンは、日本征討のための軍船900艘の建造を高麗に命じました。そして同年10月、元・高麗連合軍2万6千は、慶尚南道の合蒲(がっぽ、今の馬山)を出発、対馬・壱岐を侵して、10月20日、博多湾西部に押し寄せました。『八幡愚童訓』によれば、上陸した元軍の毒矢、集団戦法、「てつはう」なる火器などが威力を発揮した…とありますが、日本軍の抵抗もあって、元軍はその日のうちに船に戻り、翌21日博多湾から姿を消しました。高麗に撤退途中、嵐に会って壊滅したらしいというのが、最近の定説です。
二度目の元寇が、1281年に起こった『弘安の役』です。このときの元軍は、二つの軍で編成されていました。そのうち、東路軍は、モンゴルと漢兵3万人、高麗兵1万人、軍船900艘、江南軍は、南宋の降兵10万人、軍船3,500艘という大軍でした。
5月3日、東路軍が先陣をきって出撃、21日に対馬を襲い、壱岐を経て、6月6日に博多湾に進み、志賀島に拠点を築いて壱岐に退きましたが、その壱岐で日本軍の激しい攻撃を受けます。そのころ江南軍は、平戸や五島列島で行動中でしたが、7月に入ると両軍は、鷹島(現:長崎県北松浦軍鷹島町)に終結し、博多湾への侵入をはかります。そして閏7月1日、暴風雨に会い、ひどい打撃を受けました。
周知のとおり、その後、「二度の元寇は、どちらも暴風雨が、日本に幸いした、あれは神国日本を守る“神風”である。」という考え方が広まりました。日本を襲う暴風雨といえば、誰でも台風を思い浮かべます。本当に二度ともそうだったのでしょうか?
上の説明に登場する月日は、すべて【陰暦】が使われています。もちろん今の何月何日にあたるか、正式に計算できますが、少し横着して、今年2009年の暦で調べてみると、弘安の役で元軍が嵐で壊滅した閏7月1日の前の日は、今年は9月18日にあたり、台風シーズン真っ只中です。ところが文永の役で、元軍が嵐の被害を受けたかも知れないのは、10月20日(今年は12月6日)よりさらに後のことで、台風はまず来ない時期です。
そこで、本ブログのタイトルのように、「神風は一度しか吹かなかった」と言いたいわけですが、最近、神風=台風…と決め付けるのは、少し乱暴かなと思い始めました。冒頭の『歴史を変えた気候大変動』を読んだおかげです。
今では、 「文永の役(12月)で暴風雨の被害に会った元軍が、なぜまた、もっと暴風雨が起こる可能性が高い台風シーズン(9月)に再来襲したか?」ということの方が、気になります。東シナ海沿岸では、この時期に台風が出現するのは分かっているでしょうに…。
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