2012-1-20

二つの大噴火


 私=ハム先生は、20代半ばの頃、頑張って日本の民謡を練習したことがあります。
 当時まだカラオケがなかったので、宴会で歌うには、アカペラ(イタリア語で、a cappela = 無伴奏の歌)でやるしかなく、それには、民謡がぴったりだったからです。努力の結果、私の持ち唄はLP(1分間33回3分の1回転する演奏時間の長いレコード)2枚分にもなりましたが、その中の一つが、「小諸馬子唄(こもろまごうた)です。

 「小諸出て見よ 浅間の山にヨー
           今朝(けさ)も三筋(みすじ)の煙立つハイハイ

という歌詞の、朗々と歌うのにぴったりの唄で、本人は気分よく声を張り上げた次第です。

 この浅間山、活火山で今も噴火の可能性がありますが、史上最大ともいえる大噴火が起こったのは、1783(天明3)のことです。

 この年は、旧暦4月から地震などの前兆があり、5月には広い範囲に火山灰が降り、7月8日(新暦8月5日)朝、大噴火がおこりました。 
 古い記録によると、「8日朝、11時ころ(熱泥流が)押し出すとともに浅間山の煙(噴煙)の中心に巨大な黒い柱が立つやいなや、間もなく鎌原(かんばら)の方にぶつかり横3里(12km)に広がった」とあります。

 このとき流出した溶岩が固まったのが、「鬼押し出し」で、そのすさまじさを今に伝えています。碓氷(うすい)峠では、降り積もった火山灰が5尺(約150cm)に及んで、軒端に届き、江戸でも1寸の降灰があったと言います。さらに吾妻(あがつま)川が決壊し、それが注ぎ込む利根川筋でも洪水がおこりました。

 中でも壊滅的被害を受けたのは、前述の旧鎌原村(現 嬬恋村)です。ここは火砕流の直撃を受けてほぼ全村が埋没し、人口約570人のうち、生存できたものは、わずか93人に過ぎませんでした。

 1979年から行われた旧鎌原村における埋没村落総合調査の際、やや高台にある観音堂下の溶岩で埋まった石段から、親子と見られる二人の女性の遺体が発見されました。おそらく、娘が母親を背負って観音堂に逃げ上がろうとして、溶岩に飲み込まれたものと思われます。頭骨から復元された顔立ちが、上品だったことが、仲間うちで話題になりました。

 さて、浅間焼けのおこった1783年には、もう一つの大噴火が、アイスランドでありました。このラキ火山の噴火は、浅間山の2か月前の同年6月8日に始まり8ヶ月も続きました。ラキ火山は、英語名がLaki、アイスランド語ではLakagigar で“ラキ噴火口”の意味です。

 この噴火では、歴史上最大の溶岩が流出し、およそ600平方キロの地域を埋め尽くし、溶岩台地を出現させました。また、発生したガスや火山灰により、多くの家畜が死に、農作物にも甚大な被害をもたらしました。アイスランドは最悪の飢饉となり、当時の全人口の5分の1にあたる約1万人が命を落としたと言います。

 同じ年に起こった東西の火山の大噴火は、地球規模の深刻な事態を引き起こしました。硫黄酸化物などによる直接被害に加え、空気中に漂った火山灰により、世界的な日照不足が長期間続いたからです。
 昨年の日本は、天災続きでした。被災地の復興を、心から願いつつ、本稿を書き上げました。

2012-1-10

「かんさい」か「かんせい」か?


 近畿地方には、「関西」という名を冠した私立の有名大学が、二つあります。
 ところが、一方は「かんさい」大学で、他方は「かんせい」学院大学というわけで、読み方がちがいます。
 これは、漢字に主に、呉音(ごおん)と漢音(かんおん)という二つの読み方があり、「西」の場合、呉音によれば「さい」となり、漢音によれば、「せい」だからなのです。他の例を挙げれば、「兵」は、呉音では「ひょう」で漢音では「へい」、以下、「行」は、「ぎょう」と「こう」、「日」は、「にち」と「じつ」などとなっています。我々は普段、あまり意識しないで使っておりますが。

 この呉音と漢音ですが、日本にまず入ってきたのは、呉音の方で、7世紀ごろのことと言われています。もとは中国語の中でも南方の方言だったようで、六朝(りくちょう=これは漢音読みです)時代(AD220~589)の呉と交流のあった朝鮮の百済(くだら=ぺクチェ)を通じて伝来したもので、「対馬音(つしまおん)」とも呼ばれます。

 漢音の方は、唐の都長安や副都洛陽で使われた音がもとで、8~9世紀に遣唐使やこれに同行した留学僧によって、日本に伝えられました。

 呉音は、早々と日本語に取り入れられました。日本政府は、漢音の方を正音(せいおん=新しく輸入された漢音の平安時代の呼称)として普及させようとしましたが、すでに日本語に同化していた呉音をしのいで、急速に広まることはなかったといいます。ただ、漢籍(かんせき=漢文で書かれた書物)を読むのには、漢音の方が便利だったためもあり、次第に漢音の勢力が増し、現在では漢音が、呉音をしのいでいます。

 では、ここで、わずか276字で、人生の知恵を語り尽くしたともいう般若心経の冒頭の部分(松原泰道「般若心経入門」昭和47年初版より)に読みを付けてみましょう。
 以下の文の一行目は漢字、二行目は、前掲書に付いていた読みですが、呉音と私が判断した場合は「カタカナ」、漢音の場合は「ひらがな」で表記しました。判断にあたっては、「漢語林第2版」(鎌田 正・米山寅太郎 著 大修館書店 2004年)などを使いました。


 観自在菩薩     行深    般若    波羅密多  時   照見    

カンジザイぼさつ  ギョウシン はんニャ  ハラミッタ  ジ  ショウけん   


五蘊   皆空   度 一切   苦厄  舎利子  色不異空    空不異色   

ゴウン  かいク  と イチサイ クヤク シャリし シキふうイク  クふうイシキ


(要約:聖なる観音が知恵の完成を求めて実践に励んでいたとき、存在するものには、五つの構成要素があることを突き止めた。ただ、それは本性からいうと実体のないものであった。シャーリプトラよ。この世の物質的現象には実体がなく、だからこそ存在するのだ。)

古来、仏に仕える仏家は、呉音を用いたといいますが、手間ひまかけて辞書を引いたことで、そのことが実感できました。そして、キリスト教系の関西学院大学が「関西」の読みを、漢音である「カンセイ」とした理由も納得できました。

2011-12-26

花を手向ける!


 人類は、猿人~原人~旧人を経て、我々の直接の祖先である新人の段階に到達しました。

 最初の人類である「猿人 Ape-man(Apeは類人猿のことです)」は、アウストラロピテクスに代表されますが、約400万年前に出現しました。野生の動植物を食料とし、単純な打製石器を使っていました。脳の容積は、約500ccで、ゴリラとあまり変わりませんでした。

 次の「原人 Homo erectus」は約170万年前に登場し、旧大陸の広い範囲で生存するようになりました。ジャワ原人(昔は、「直立猿人」の日本名を持ち、猿人に分類されていました)や北京原人が有名です。彼らは、形の整った打製石器を使っていました。脳の容積は、猿人の倍もあり、非常に頑丈な体をしていたと考えられています。特に北京原人は、火を使い、言葉もしゃべっていたと思われます。

 次の「旧人 Paleanthropine」を経て、現れたのが、現代人の直接の祖先(現生人類)である「新人 Homo sapiens sapiens」です。約4万年~1万年前に新旧両大陸の広い範囲で生活していました。石器に加えて、各種の骨角器を使い、さらに装身具を身につけ、洞窟美術なども残しました。
 代表するのが、「クロマニヨン人 Cro-Magnon man」で、脳の容積や体格が、今のヨーロッパ人に近く、「もし、彼らがスーツを着てヨーロッパの街を歩いても、なんら違和感はないに違いない」という表現に、以前接したことがあります。

 では本稿の主役であり、旧人を代表するネアンデルタール人 Homo neanderthalensis」の話に移りましょう。
 「旧人」とは、約20万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒトの一種です。ヨーロッパを中心に、西アジアや北アフリカの広い範囲で化石が発見されます。脳の容積は1500cc前後と、すでに現代人並みで、高度の剥片(はくへん)石器や火を使用し、宗教を理解する感性と氷河期の低温にも耐える頑健な体を持っていたようです。そして、旧人の代名詞とも言えるネアンデルタールという名は、1856年に化石が発見されたドイツの地名です。


 以上、長々と取り上げてきたのは、すべて前置きです。では、本論に移りましょう。

 アメリカのコロンビア大学の人類学者ラルフ・S・ソレッキは、1951年からイラクのシャニダール洞窟で発掘調査を行っていましたが、その第4次調査(1961年)のとき、成人男性の完全な化石を発見しました。「成人4号」と呼ばれたその化石は、横向きで膝を折った屈葬の姿勢で、生きている人たちと同居していたようにも思えました。 

 ソレッキは、化石の周囲の土を採集し、パリ在住の古植物学者アルフレッド・ルロア・グーラン夫人に鑑定を依頼しました。夫人は、7年の歳月をかけて顕微鏡で調査し、ついにキンポウゲ、タチアオイ、ノボリギクなど8種類の花の破片と花粉を確認しました。夫人は、洞窟の中にそのような形で、花が存在するのは、人間のしわざに違いないと考えました。それを受けて、ソレッキもネアンデルタール人が、死者に「花を手向(たむ)けた」と結論し、1977年、『Shanidar ,The First Flower People(ハム先生訳 「シャニダール、花をめでた最初の人びと」)』という本を出版しました。

 もちろんさまざまな批判がおこりました。確かに、「成人4号」について、突然周囲の土を鑑定にまわしたこと、他に同様の例が報告されないことなど、懸念は残ります。しかし、DNA鑑定で、現生人類とは、違うものと判定されたとは言え、ちょっと前の先輩人類の中に花をめで、死者に「花を手向けた」人たちがいたという話には、堪らない魅力があります。私としては、思わず「それにまちがいない!」と言いたくなります。


2011-12-13

『イ・ヱ・ス・シ』から『みんな いい こ』まで


 最近、小学校1年生の『こくご』教科書を見る機会があり、その色取りの美しさや工夫された内容にびっくりしました。「ピカピカの一年生たち」は、さぞドキドキしながら、頁をめくるのだろうなと思い、なんかなつかしい気持になりました。小学校一年生の国語の教科書、そして特にその最初の頁に接することは、どの世代にとっても、感動に満ちていたと思うからです。

その教科書が、40年余りにわたり国定だった時期がありました。そして、その国語教科書の第一頁をたどると、その時期の日本の歴史を概観できると昔から言われています。

 1902(明治32)年のことです。当時は検定で、府県単位で採用していた小学校教科書で贈収賄事件がおき、それに関連して最初に国定教科書が登場したのは、その2年後の1904年のことでした。これが国定第一期教科書である『小学国語読本巻1』です。

 その冒頭には、四字のカタカナ「イ・ヱ・ス・シ」に「椅子」・「枝」・「雀」・「島?」の線画が添えてあったため、「イエスシ教科書」とも呼ばれたようです。これは、日本の資本主義興隆期の気分を反映して、なかなか開明的で、「新聞紙」や「停車場」そして、リンカーンやナイチンゲールなど外国のこともたくさん取り上げていました。

 日露戦争後、第一期の教科書に対する批判が強まったため、政府は、1910(明治43)年から、第二期教科書の採用に踏み切りました。冒頭に「ハタ(「日の丸」の絵)」、「タコ(凧の絵)、「コマ(独楽の絵)」のあるもので、帝国主義段階に入った日本の状況を反映し、国家主義的色彩の強いものでした。欧米の情報は、ほとんどなくなり、勤勉の象徴であった「二宮金次郎」や「家の紋」・「ソセンヲタットベ」・西洋紙と比較したときの「日本紙」の優秀性などを内容としていました。

 そして、日本の国定教科書としては、画期的とも言える第三期時代を迎えます。1918(大正7)年から使われた国語読本は、「ハナ・ハト・マメ・マス」で始まります。「ハナ」は多くの花と特に桜の花びらに一頁費やし、次の頁に鳩や枡を持った男の子、そして、豆をついばむ鳩4羽の絵があります。

 この「ハナ・ハト・マメ・マス」教科書は、「アメリカだより」など国際理解をはかる教材や「サルカニ」(10頁)、「モモタロウ」(11頁)などの話に多くの頁を費やすなど、子どもの興味・関心に対する配慮もなされていました。当時の徴兵検査で、判明した壮丁(そうてい=当時、検査対象となった若者の呼称)の学力の低さに対する反省と大正デモクラシーという時代風潮が、第三期国定教科書を登場させたと言えるでしょう。この教科書は、大正生まれ(1912~1926)の人たちが例外なく使ったことも、興味をひきます。

 満州事変が始まるなど軍国主義へ傾斜しつつあった1933(昭和8)年、国定教科書は、第四期の時代に入ります。セピア色をした立派な国語読本の冒頭は、有名な「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」、続いて「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」という具合に、文章をかかげて(センテンス メソッド)います。内容的には、神話や万葉集などの古典を重視するなど、臣民としての国民の教育をめざしていました。

 1941(昭和16)年、国民学校令により、従来の小学校は廃止され、初等科6年、高等科2年の国民学校がスタートしました。そして国定教科書も「国民ノ基礎的練成」を目的とするものとなりました。この第五期の1年生の国語読本の冒頭は、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」で、「コマイヌサン ア(阿=口を開いたさま) コマイヌサン ウン(吽=口を閉じたさま)が続きます。神国観念を身につけた皇国臣民の育成を図る意図が、随所に現れています。

 1945(昭和20)年の終戦とともに、それまでの教育のあり方は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、否定され、教科書にあった戦争教材や国家主義的な頁は、墨で塗りつぶすか、切り取るかして使いました。

 1947(昭和22)年、国民学校は廃止され、小学校が復興しました。教科書はどうなったでしょうか? 実はこのとき、もう一度国定教科書が出されたのです。正式には、カウントしませんが、第六期国定教科書です。当然ながら民主主義にもとづいた内容で、多くの欧米人が登場するなど、近代的性格を備えていました。

 一年生の『こくご 一』の冒頭には、 「みんな いい こ」というタイトルがつき、 「おはなを かざる みんな いい こ きれいな ことば みんな いい こ なかよし こよし みんな いい こ」という暖かい文章が、ひらがなで綴られていました。二頁にわたる背景の絵の中央には、花のアーチがあり、周囲にも花があふれる中で、11人の男の子や女の子が、花を飾ったり、運んだりしています。線画には、淡い緑の色だけがついていましたが、多くの子どもが、別の色を塗り加えました。どうして、そんなことまで知っているかというと、私=ハム先生は、まさしくその教科書で勉強し、色を塗って怒られた1年坊主だったからです。

 その教科書は、まだ、私のところの書棚のどこかに存在するはずです。

 国定教科書は、「みんないいこ」に代表されるもので終わり、1949(昭和24)年からは、検定教科書の時代となりました。これは、現在も続いています。

2011-11-28

押すか? 引くか? 2~3の道具考


 佐原 真(さはら まこと)氏は、『大工道具からみた日本人』(岩波新書「考古学の散歩道」1993年共著)の中で、種々の道具を主に、日本人の指先の器用さと結びつけて取り上げています。器用さと無縁な私・ハム先生はこれを読んだとき、道具には押して使うもの引いて使うものがあるという話の方にすごく興味を持ちました。

 まず前掲の文から、大工道具を二つ取り上げたいと思います。トップバッターは鉋です。

 「(かんな)」とは、木材を板として仕上げるときに使う道具です。以前、我々が建築現場などで、よく目にしたのは、台鉋(だいがんな)ですが、あれは。歴史上は新人で、古代~中世前期には、「ヤリガンナ(漢字では、槍鉋あるいは、金偏に斯 など)」しかありませんでした。柄の先にややカーブした小刀がついたもので、押しながら板の表面を整形する道具です。ただ、削ったあとは、平らにならず、細かい凹凸がつきます。

 この問題を解決したのが、室町時代に登場し、今も現役の台鉋です。木の台に平らな刃を付けたもので、板の上で引くことで表面を完全に平らにできます。そして、鉋くずは薄く美しい帯になります。鉋という道具は、押すものから引くものに見事に変化したということができます。

 次に取り上げるのは「(のこぎり)」です。木材をカットするのに使うこの道具は、すでに古墳時代に存在しますが、日本では最初から「引いて使う」道具でした。そして、この時代の末期には、「アサリ(歯振)」といって、刃先が交互に左右に出た構造の横挽きの鋸も登場します。鋸はその後、縦挽きのものや、製材用の大鋸(おおが)なども生まれ、進歩発展していきますが、欧米のものと違い、「引いて使う」と方式は変わりませんでした。

 では、続いて農具、それも農具の総称でもある「(すき)」と「(くわ)」に移りましょう。
 まず、「」です。これは、地面に突きたてたり、土を切ったりして耕作する道具ですが、実はこの字を使うと、人間が、手や足で「押して使う」ものの方になってしまいます。古代には、この鋤だけだったようですが、中世になると牛や馬に引かせる「犂(すき)」が登場し、作業効率が飛躍的に高まりました。現在の耕運機も同じ方式ですね。

 最後は「」です。これは、長方形の刃に柄(え)を付けた農具で、頭上から振り下ろして地面にくいこませ掘り起こしたり、土を引き寄せながら均したりする道具です。引く道具として何の疑いもないと思うでしょうが、「弥生時代の『鍬』は押して使った」と思われていた時期があります。それは、柄を差し込む刃の穴の角度からみて、刃と柄が鈍角をなしていたからです。すなわち、現在の雪かき道具に似た構造ですから、「押して使った」に違いないと思われていたのです。この問題は、1964年に京都市の深草遺跡から出土した鍬によって解決しました。やはり、弥生時代の鍬も「引いて使う」道具でした。それまでは、刃の裏表を取り違えていたのでした。

 以上の例示では、不足だと言われるのは覚悟の上で、私は、道具に代表される日本の文化は、「引く」文化として発達してきたということを述べたいと思います。「魅く(ひく)」文化とまで言うのは、行き過ぎかもしれませんが。 

2011-11-17

いいがかりの決定版 方広寺「鐘銘事件」


 戦いの際、非が相手方にあると主張することは、重要な戦略です。そのため、大変ないいがかりをつけることもありました。そんな中でも、豊臣氏が建立した方広寺(ほうこうじ、京都市東山区 に現存する天台宗の寺)の大鐘の銘につけた徳川氏の”いいがかり”は、ちょっと他に類をみないほどのものでした。

 その方広寺ですが、成立そのものが波乱含みでした。この寺は、まず豊臣秀吉(1537~98)が、東大寺のような大仏殿にちかいものをめざし、小早川隆景(こばやかわ たかかげ:1533~97)に建立を命じました。そして、大徳寺の高僧を開山と決めるまでしましたが、寺は完成せず、1596(慶長元)年の大地震で、完全に倒壊しました。


 秀吉の子・秀頼(ひでより:1593~1615)は、亡父の追善供養のため、1602(慶長7)年、方広寺大仏殿の再興に着手しましたが、まず、その年末に失火で工事は頓挫。7年後あらためて片桐且元(かたぎり かつもと:1556~1615)を奉行として事業を再開し、1614(慶長19)年、問題の巨鐘(高さ 3.24m、口径 2.88m 、使用銅 63.75 トン)の鋳造をもって、寺の完成にこぎつけました。この間、莫大な費用がかかりましたが、これも財力を費消させる徳川氏の策略だったといいます

 さて、この年5月21日に、8月3日をもって大仏開眼供養と堂供養を併せて行うことが決まり、駿府(すんぷ)の徳川家康の了承も得て、準備が進められました。ところが、7月18日徳川家康からまず、開眼供養と堂供養を分けて行うようにという話があり、ついで同26日鐘銘に疑義があるため、供養の一切を延期せよという命令がきました。


 その銘文は、「洛陽東麓」に始まる4字の術語 38 のことで、当時文筆家として有名だった東福寺の清韓文英(せいかんぶんえい)長老の作品でした。不穏な言葉とされたのは、 30番目の「国家安康(こっかあんこう=国に異変なく安全無事のこと)」と 33番目の「君臣豊楽(くんしんほうらく=君主も家臣もみな豊かさを楽しむ)」の二つでした。
 何を問題にされたかというと、まず「国家安康」では、「(徳川)家康」が「安」によって引き裂かれている。これは、徳川を呪ったものだ。それに対し、「君臣豊楽」では、「豊臣」がきちんとつながっている。しかも「豊臣を君主として楽しむ」という意味も込められているはずだ…というものでした。「豊」と「臣」が逆さになっていることなどは無視です。


 驚いた豊臣家は、銘文を起草した清韓長老と片桐且元を弁明のため駿府に派遣しましたが、徳川方は、全く耳を貸さず、かえって大坂城で、多くの浪人を雇ったことを責める始末でした。そして、9月に入ると、豊臣氏の国替えあるいは、秀頼もしくは母親の淀殿の江戸下向(げこう=高い所から低いところに向うこと)に応じるように強要してきました。

 さすがに豊臣方はこれに反発し、大坂冬の陣の勃発とあいなりました。そして一度、和平は結んだものの、続いて起こった大坂夏の陣で、豊臣家は、滅亡しました。徳川方の「いいがかり」が功を奏したわけです。


 その巨鐘は、1884(明治17)年に鐘楼に納められ、現在も見学可能です。問題の4字×2は、みんなの視線を浴び続けたためでしょうか、他の部分と違う色をしています。


2011-11-7

保護者会は、不滅です!


 長らく、大学で教職総合演習を担当してきた私・ハム先生にとって、長野県松本市に現存する旧開智学校は、何度訪問しても、汲めども尽きぬ喜びを与えてくれる場所です。

 この旧開智学校は、明治6(1873)年、学制による「第二大学区第一番小学開智学校」としてスタートしました。昭和36(1961)年、重要文化財に指定された美しい擬洋風(ぎようふう)の校舎が竣工したのは、明治9(1876)年の事。棟梁の名は立石清重(たていしせいじゅう)、総工事費は、県令(県知事)の月給が20円の時代に約1万1千円かかりましたが、その7割は松本町民の寄付で賄ったといいます。

 開智学校は、明治時代を通じて種々の教育機関が併設され、信州全体の教育活動の拠点になっていきました。そして、旧開智学校の校舎自身は約90年間、現役の小学校として使われましたが、昭和38(1963)~39年に改修・移転され、その後今日にいたるまで教育博物館として、意欲的な活動を続けています。

 旧開智学校の展示は、教育資料と建築資料の2つからなっています。収蔵資料が膨大なため、ときに常設展示物の入れ替えも行っているようです。その中で、私が20年余り前に接し、痛く感激したものを紹介したいと思います。それは、明治時代の保護者会の資料です。当時の名称は「懇話会」で、貴重な写真と参加を呼びかける「通知券」から、そのようすを窺うことができました。

 開智学校の最初の懇話会は明治31(1898)年のことだそうですが、明治時代のものに間違いないとは思われる、その写真の年代は不詳でした。写真には、二人用の生徒の机(実物は、今も常設展示されています。)を並べかえて作った会場と、たくさんの丸髷(まるまげ)の女性、何人かの男性、それに付いて来た幼児が写っており、今の保護者会の風景と、あまり変わりません。もちろん、写真はセピア色で、登場人物は全員、和服すがたです。

 明治44(1911)年のものと、年代のわかる通知券(案内のお知らせ)によれば、当日は、まず、2時間の受け持ち教員(当時の名は、訓導です。)との懇話があります。懇話とは、「うちとけて話し合うこと」と辞書にありますが、どんな内容だったのでしょうか? 一方的に教員が、話したとすると2時間はいかにも長いですし、非生産的な意見や質問が出て、紛糾しても困ります。

 後半は、1時間の校長懇話です。これは、きっとそのときの学校や生徒のようすについての校長先生のお話だったと思いますが、1時間は、話し手はもちろん、聞き手にとってもツライものだったような気がします。

 おもしろいのは、休憩時間に、15分の体操遊戯と14分の唱歌および理科実験があったことです。さらに懇話のあとには、生徒の作品を見学できました。参加者にとっては、こちらの方が、興味深かったことでしょう。

 全体を通した印象は、今もやっている、授業参観を取り入れた保護者会にそっくりです。こういうことが少なくとも100年以上続いているのですから、もう「保護者会は不滅です。」と言っても差し支えないでしょう。


2011-10-24

尼将軍の大演説!


『日本版 女性列伝』なる本を作ろうとすれば、「北条政子」をはずすわけにはいかないと思います。 永井路子さんは、『歴史をさわがせた女たち 日本篇』で、北条政子を「鎌倉のやきもち夫人」として扱っていますが、私としては、承久の乱(じょうきゅうのらん)に際してぶった大演説のほうを、彼女の真骨頂(しんこっちょう=それの真価であるすがた)として取り上げたくなります。

 北条政子は、1157(保元2)年、平家の流れをくむ地方豪族北条時政(1138~1215)の女(この場合は“むすめ”)として誕生しました。時政の主たる役割は、平治の乱(へいじのらん、1159年)に敗れ、伊豆に流刑中の源頼朝(1147~1199)を監視することでしたが、政子はなんと、貴族的な雰囲気を漂わせているとはいえ、一介の流人である頼朝と結婚し、1180(治承4)年の頼朝の挙兵にも加わります。

 1199(建久9)年の頼朝の急死後、政子は、出家し二位尼(にいのあま)となりますが、静かに喪(も)に服することなく、父 時政、弟 義時(1163~1224)とともに幕政を主導し、「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれるような働きをいたします。

 政子は、頼朝とのあいだに、二男二女をもうけましたが、2人の息子、頼家(1182~1204)・実朝(1192~1219)との関係においても個性的な動きを示しました。まず1203(建仁3)年、二代将軍であった頼家を廃し、その外戚(がいせき=母方の親類)であった比企(ひき)氏を滅ぼします。そして、次男の実朝を将軍とし、自ら後見役を務めます。

 実朝は、最初から政治上の力をもたず、ひたすら貴族としての地位や教養を求めました。そして、右大臣となり、鶴岡八幡宮に拝賀に赴いたとき、甥の公暁(くぎょう、1200~1219)によって暗殺されます、政子は、二人の息子の非業の死に直面したことになります。

 政子の動きでは、さらに、父 時政を失脚させ隠遁に追い込んだこと(1205年)や、上洛して当時の実力者であった卿二位 藤原兼子(ふじわらのけんし、1155~1229)と対決したことなども有名ですが、急いで、お目当ての「大演説」の話に移り。たいと思います。

 1221(承久3)年5月、西面の武士を置くなどして、政治力の回復をはかってきた京都の後鳥羽上皇(1180~1239)は、14カ国の兵や諸寺の僧兵を召集し、北条義時追討の院宣(いんぜん=院の命令)を発しました。幕府方は、後家人を鎌倉に集め、結束を固めようとしました。そのときの政子の演説が余りにも有名です。彼女はまず、鎌倉幕府成立前の東国の武士のみじめな姿を言い、頼朝の恩を訴え、「三代の将軍のお墓を京家の馬のひずめにかけさせてもよいのか?」と問い、「もし京都に行くのなら、この尼を殺し、鎌倉を焼き払ってからいくべし」(『承久兵乱記』より)と結びました。武士どもは皆、「伏目に」なったといいます。政子の前に坐ったときすでに勝負はついていたのでしょう。ご案内の通りほどなく幕府軍は京都方に圧勝いたしました。

 私は、イギリスの作家ケン・フォレット(1949~)が好きで、日本で出版された本は、全部読んでいます。彼の作品の魅力は、綿密に構成されたストーリーと活躍する女性の存在です。彼に北条政子を書かせてみたいと、最近、しみじみ思うのです。

2011-10-12

円の話、あれこれ!


 恐るべき円高傾向が止まりません。あの大震災のあった「3.11」直後に1ドル=86円くらいだったのが、同時多発テロ10周年にあたる半年後の「9.11」には76円台をつけていました。経済問題にくわしいとは言えない、私=ハム先生ではありますが、僭越ながら歴史の観察者の立場から今回は、我が日本の通貨「円」を取り上げてみようと考えました。
 まずは、円の始まりからです。

 円は、1871年5月10日(新暦では、明治4年3月21日)制定の「新貨条例」により誕生しました。この呼称は後述するように中国に由来するようですが、採用されたいきさつについては、財務担当参与であった大隈重信および造幣判事久世治作による… あるいは、香港から輸入した中古のイギリス製鋳造機による… などと言われますが、定説はないようです。なお、関連事項として、香港のイギリス造幣局が、「香港壱円」と刻印したドル銀貨を発行した事実はあります。

 この円は、金本位制度のもと、銀行に持っていけば、1円あたり1.5グラムの金に換えることができました。この量は、それまでの1両小判の金の含有量とほぼ同じだったため、両から円への移行は混乱なく進められたようです。

 また、円より下位の単位として、銭と厘(銭の1/10)もおかれました。「銭」はアメリカの通貨「セント」からきていますが、これは「センチ」と同じで、100分の1のことです。
 昔「キロ(1000倍)キロとヘクト(100倍)デカ(10倍)けたメートルがデシ(1/10)に追われてセンチ(1/100)ミリミリ(1/1000)」と言って覚えたことを突然思い出しました。

 さて、円は、ローマ字では「Yen」と表記します。「En」では、「アン」とか「イン」などとされる怖れがあったので、ちゃんと「イェン」と言ってもらうために、「Yen」としたようです。
 国際的な略号は、「JPY(ジャパニーズ エン)」です。最近、経済成長が著しく、注目をあつめる中国の通貨「元=CNY」と区別する必要が増してきたといいます。実は、中国の「元」も、本当は、「(=円の旧字)」で「円」なのです。韓国の「ウォン」も同じく「円」です。

 1897(明治30)年、新貨条例に替わる「貨幣法」が制定され、1円=純金0.75グラムとされました。その後約20年間、金本位制は維持され、対外的にも円の価値は安定していました。しかし1917(大正6)年、金輸出が禁止されたため、金の裏づけを失った円の価値は下がっていきました。(昭和5~6年、「金解禁(金輸出解禁の略)」が行われ、一時的に金本位制にもどりましたが、)

 1949(昭和24)年ブレトン・ウッズ体制(1944年成立)のもと、連合国軍最高司令官総司令部=GHQ の命令で、1ドル=360円に固定されました。アメリカの担当者が、円の意味を聞いたところ、「円は360度である」と答えた者がいて、360円になったという、あまり信用できない俗説もあります。この安いレートは、敗戦から立ち上がろうとしていた、日本にとって、大きな後押しとなりました。

 1971(昭和46)年、財政悪化に悩んでいたアメリカは、ドルと金の交換を停止しました。時の大統領の名前をとって、ニクソンショックと言います。そのため始まったスミソニアン体制の下で、ドルの切り下げ・円の切り上げが行われ、1ドル=308円となりました。

 しかし、このスミソニアン体制は、2年で崩壊し、1973(昭和48)年2月、完全に変動相場制になりました。円はあっという間に200円台に入り、上昇を続けました。その5年後の1978(昭和53)年のことです。私=ハム先生は、東京都教育委員会に命ぜられ、アメリカ合衆国とメキシコの教育事情視察に参りました。円の価値は、さらに上がって1ドル=190円くらいになっておりました。円で支給された旅費は、なかなか減りませんでした。あんなに裕福な思いをしたことは、前にも後にもありません。

 手前味噌の思い出を紹介したところで、この稿は、終わりとしたいと思います。非常に興味のある「新円切り替え」のことなども、いつの日か本欄で取り上げることができるように、さらに勉強したいと存じます。


2011-9-26

五稜郭・四稜郭そして三稜郭?


 まず『稜(りょう)』とは、「多面体の隣り合う面が交わる辺」のことで、『郭』は、「城や砦など一定の区域の周囲に築いた石や囲い」のこと。だから、『五稜郭(ごりょうかく)』となれば、「五角形をなすお城」ということで、函館にあるのが有名ですね。国の特別史跡にもなっております。

 1854(嘉永7)年3月、日本は前年に引き続き来航したペリー黒船艦隊との間に、日米和親条約を結び、下田と函館(当時の表記は「箱館」)を開港しました。同様の条約は、同年(途中から「安政」と改元)12月のうちに、ロシアとの間にも結ばれました。このため、重要さを増したのが、防衛や警備問題です。これに対し、江戸幕府が対策の一つとして打ち出したのが、洋式城郭の建設でした。のちに「五稜郭」となりましたが、最初は「函館奉行所」が正式名で、「亀田役所土塁」とも呼ばれたようです。(2010年7月、奉行所の建物の復元工事が完成しました。)

 さて、この城郭としての五稜郭の設計を担当したのは、伊予出身の兵学者武田斐三郎成章(あやさぶろうなりあき、1827~80)です。彼は、強力な砲撃が主流の近代戦においては、旧来の城郭は役立たないと考え、稜堡(りょうほ)式という星型の洋式要塞を採用しました。設計にあたり武田は、オランダ語に翻訳されたフランスの『築城術の原理』なる本を参考にしたといいます。


 資金不足もあって、五稜郭は、計画よりだいぶ縮小されたものになったといいますが、総面積は、74,990坪(約247,466平方メートル)あり、今もそばの五稜郭タワーからその美しい全容をながめることができます。



<▲写真:五稜郭タワーから見下ろした五稜郭>

 この五稜郭は、1869(明治2)年、榎本武揚(たけあき、1836~1908)率いる旧幕臣軍(蝦夷共和国軍ともいう)と明治政府軍の戦いの舞台になりました。その際、旧幕臣軍が五稜郭の北東約3kmの丘陵上に建設したのが、四稜郭です。建設の指揮にあたったのは、大鳥圭介(1833~1911)またはブリュネ大尉だといわれています。規模は東西100m、南北約70mで、土塁や空濠を備えていますが、篭城するには手狭で、井戸のないことから野戦用の拠点として建造されたとおもわれます。

 昔、『福山・江差漁民一揆史料』(平成9年出版、秋山書店、鈴木研・千代田恵汎・ハム先生 共編)出版のため、私はリーダーの鈴木研さんとともに、何度も函館を訪れました。そのときのある夜のなつかしい会話を紹介します。

「五稜郭があって、四稜郭があるんだね?」  
研さん 「そうだね。」

「じゃあ、三稜郭もあるかもしれないね。」   
研さん 「あるかも知れないね。」

「二稜郭はどうだろう?」         
研さん 「む……、あるわけないでしょ!」

 ところが、この稿執筆にあたり、調べてみたら、函館市内の比遅里(ひじり)神社を「三稜郭」と考える研究が進んでいることがわかり、びっくりしました。

「二稜郭」がないことは、今や私もよく理解しておりますが!


プロフィール

【ハム先生】
過去には中学校、現在では都内・某私立高校と某女子大学で教鞭をとる。趣味も「日本史」「世界史」…? 歴史・文化・芸術…等々のジャンルで執筆していくよ!

カレンダー

2012 / 1
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31



最近のトラックバック

Blog Owner

ハム先生