2010-3-8

「いとまの状は みじかき物」


いとまの状(じょう=手紙や書類)は みじかき物

 江戸時代初期のある草子では、いとまの状=離縁状をこのように表現しています。離縁状とは江戸時代に、離婚手続きとして、夫が妻に出すことを義務づけられていた書類で、これがないまま再婚すると、「所払い(ところばらい=追放)」の刑などに処せられたといいます。では、『手紙証文集』(江戸 高園堂 刊)所収の離縁状の書式の一例を紹介しましょう。本物はもちろん縦書きです。 文面の最後の行にある「レ」は『レ点《返り点》』です。(  )内には「字の読み=その意味」を示しました。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――
       里え(※ゑ)ん状(りえんじょう)

一 其方事(そのほうこと)我等勝手ニ付(われらかってにつき=こちらの考えで)

 此度離縁致候(いたしそうろう)、然(しか)ル上ハ 向後(こうご=これから)

 何方ヘ(いずかたへ=どこに)縁付候共(えんづきそうろうとも)差構(さしかまえ)

 無レ之(これなし) ヨッテ 如レ件(くだんのごとし=以上の通りです)

                       夫  (夫の名)

             たれとの(妻の名+との=殿)         
 ―――――――――――――――――――――――――――――――

 このような離縁状は、わずか三行半ほどの「みじかき物」にまとめられることが多かったので、「三くだり半」(本稿の参考にした、高木 侃(ただし)著 平凡社選書 の著名と同じ)とも呼ばれていました。では内容をみていきましょう。

 まず、タイトルは、「一札(いっさつ)のこと」がもっとも多く、「離縁」や「縁切り」の言葉を使うこともありました。

 つづく本文の前半では、離婚の理由が説明されます。上の文例と同じ「我等勝手ニ付」や「其方事 不相応ニ付」が目につきますが、要するに明示しないことがほとんどだと考えられます。

 面白いのは鎌倉の東慶寺(とうけいじ、松ケ岡御所とも)と並び、駆込寺(かけこみでら)として有名だった上野(こうずけ=今の群馬県)の満徳寺(1872年に廃寺)様式の場合で、「深厚之宿縁浅薄之事(しんこうのしゅくえんせんぱくのこと=前世の縁が浅かったため)」という、夫と妻の両方が傷つかない表現がされています。

 さて本文の後半は、「再婚を許可する」という趣旨の文で、「いつ、どこの、だれと再婚してもかまいません」という表現は、どれも同じです。そして最後は、「年月日、夫の名、相手の妻の名」で締めくくります。

 この離縁状は、必ず夫が出し、「我等勝手ニ付」などと書かれたせいもあって、夫による一方的な「追い出し離婚」に泣く、妻の姿ばかりを思い浮かべがちです。実際はどうだったのでしょうか。

 実は、妻の方が、夫を見限って出て行く「飛び出し離婚」の例がたくさんあったことがわかっています。それに、離縁状の書式をみても、離婚理由をぼやかして再婚しやすくする配慮がなされているように思います。実際、当時の再婚率は相当高く、2度、3度と再婚してついに良縁に恵まれた女性の例もあるといいます。さらに夫に重ねて「不埒(ふらち=けしからん行為)」があれば、離婚するという「先渡し(さきわたし)離縁状」を妻が獲得しておくという場合もありました。ことは、単純ではなさそうです。


2010-2-26

「異郷の墓標」

異郷の墓標

 昔、読んだ『NHK海外シリーズ オーストラリア』 (福島健次著 日本放送出版協会)には、オーストラリア西端のポート・ヘッドランドにある日本人墓地の写真が載っていました。草もまばらにしかない赤茶けた土の上に、「掘 八十吉」や「角 市松」などの漢字をきざんだ日本風の墓石が立っている風景です。明治初年に、そのあたりの海で天然の真珠貝を採る仕事に従事していた人たちのもので、キャプションにも「今は、訪れる人も少ない」と書かれていました。この写真に接したころは、ちょうど、リカルド・サントス楽団の「真珠採りのタンゴ( Pearl  Fisher )」がヒットしていました。美しい曲の調べと日本人墓地の侘しさが、あまりにも対照的だったの強く記憶に残りました。

 同じオーストラリアでも、カウラの日本人墓地の方は、実際に行ったことがあります。こちらは、周囲の環境もきれいで、手入れのゆき届いた芝生に同じ形をしたプレートが整然と並んでいました。カウラは第二次世界大戦中、捕虜収容所のあったところで、脱走事件で亡くなった日本兵が葬られています。ただ、プレートにある名前はほとんど、偽名なんだそうです。第二次世界大戦で、オーストラリアが日本の戦争相手国だったことを、私たちは、忘れてしまいがちです。しかし、シンガポールで1万3000人の豪州兵が日本軍の捕虜になったことや、ダーウィンの空爆・特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃などを記憶しているオーストラリア人は、たくさんいます。

 私は横浜の町が好きで、よく散策します。そのたびに大抵は、山手の外人墓地を訪れます。ここは、あのペリー艦隊が来航したとき、事故死した水兵を埋葬したのが始まりだそうで、生麦事件で犠牲になったイギリス人商人C、L、リチャードソンなどの有名人の墓もたくさんあります。横浜を代表する名所のため、いつ行っても人でいっぱいです。私は外人墓地では、おそらく他の人と異なり、ポート・ヘッドランドやカウラの日本人墓地のことを思い浮かべます。異郷で亡くなり、その地に葬られた人たちは、自分の行く末を、どう感じているのでしょうか。

2010-2-10

「自転車、事始め」


 今日も、スピードをゆるめずに角を曲がってきた自転車に体当たりされそうになりました。実際、毎日のように、自転車の暴走や信号無視で危険な目に会いますし、めちゃくちゃな駐輪で迷惑しています。でも、本来自転車は、クリーンでヘルシーな乗り物ですし、マナーをわきまえた利用者がたくさんいることを考えて、今回は自転車に関するちょっといい話を取り上げることにしました。題して『自転車、事始め』、副題は「寅次郎(とらじろう)の夢」です。

 1870(明治3)年4月29日、東京は南八丁堀五丁目在住の寅次郎なる人物から、東京府に「『自転車』を製造・販売したいので、許可をいただきたい」という願書が出されました。すでに幕末には大きな前輪を直接ペタルでこぐフランスのミショー型(=イギリスのボーン・シェイカー型)自転車が日本に伝わり、「ボーン・シェイカー」の方の直訳=「骨ゆすり」と呼ばれていましたが、寅さんは、早くも“国産車”を作ろうと張りきったようです。

 この寅次郎氏、神奈川県出身の彫刻職人だった程度のことしか、分かりませんが、「自転車」という用語を最初に使った人という名誉を獲得しました。そして、寅さんの作ろうとしたのは、ラントン型に近い三輪自転車で、一人乗りと二人乗りの2種類だったことが願書からうかがえます。

 驚いたのは、東京府の担当係官が、すぐ実際に自転車を使ってテストし、「安全などに多少の懸念はあるが、許可してもよいのではないか。」という意見を上申、早くも同年5月12日に許可を下したことです。しかも、すぐさま「自転車の製造・販売・利用などに関する取締り規則」の検討に入り、7月14日に制定いたしました。このスピーディな対応は、何かと話題になるお役所仕事とは到底思えません。


 寅さんの自転車は、「売捌数多(うりさばき、あまた)=たくさん売れたと本人が書き残していますが、彼はその後、儲けを全部吐き出すような企画に没頭します。それは、自転車の“大型化”と“営業化”への取り組みです。

 数年の努力の結果、寅さんは、1877(明治10)年末、ついに運転手2名、乗客4名乗りの大型自転車(本体4輪、リアカー2輪)を完成し、翌年4月に再び東京府から製造・販売の許可を得ました。そして、1879(明治12)年2月、彼は東京~高崎間110kmで試運転をしました。記録によれば、このとき、東京出発は第一日目の午前2時、吹上(埼玉県東部の町)に午後7時に着いて、一泊。翌朝3時30分に出発して、午後5時30分高崎に到着したようです。
 総所要時間:38時間40分、実際の走行時間に限っても17時間25分かかっています。

 一方、寅さんがライバルと考えた「乗り合い馬車」は、東京~高崎を12時間で結んでいます。早朝、東京を出て、夕刻には高崎到着という速さでした。これでは、乗り合い馬車の料金、一里(約4km)あたり4銭のところ、自転車は3銭にしても勝負になりません…

 寅さんは、ロマンチストとしても一流だったに違いありません。

【参考文献】 「くるまたちの社会史」(斎藤俊彦著・中公新書)
         「走るクスリ 自転車の事典」(岸本 孝著・株式会社文園社)

2010-1-28

「パンの話」を、二つ!


 我が家のパンは、自家製です。イギリス流の山型の食パンが定番ですが、ドイツ風のブレッチェンも絶えず、冷凍室に保管されています。

 パン職人の奥方によれば、ブレッチェンはパン作りの基本ともいうべきパンなのだそうです。それは、作るためのプロセスが、ほかのパンに比べ簡単で、しかもパン本来のおいしさを味わうことができるからです。

 さて、このブレッチェンは、こぶし大のやや硬いパンですが、製作過程で、その名もブレッチェン棒(我が家のものは、直径1,3cm、長さ18cmの丸棒です)で中央部分に凹みを入れます。焼きあがったとき、その凹みは、一本の筋になって残っています。

 何度もやったドイツ滞在中、私はそれこそ毎日のようにブレッチェンを食べましたが、初めに、つい、その筋に沿って二つに割ってしまいます。ブレッチェン棒の魔術にかかるのかも知れません。ところが、ドイツの友人たちは、その筋には目もくれず、ナイフなどで、上下にスライスして食べます。サンドウィッチにしなくても、必ずスライスします。そうする訳を聞く前に、ドイツのおっかさん(当ブログ『じゃがいも』の記事で、紹介したバンダームッターのことです。)は、亡くなりました。

 イギリスの食パンは、食べるときに必要な分だけスライスしないと風味を損ないます。たいてい、すでにスライスしたものをワックスペーパーでパッケージして売っていますが、最善の方法ではありません。そのことに関係の深いエピソードを、「パンの百科」(締木信太郎《しめぎしんたろう》著・中公文庫)で見つけました。

 今は亡きケネディ米大統領(在職1960年~1963年)は、ある日の記者会見の際、左手に白い包帯をして登場しました。一人の記者がさっそく、「どうしたのですか?」と聞いたところ、ケネディは、「パンを切ったとき、ちょっとやっちゃったんだ。」と答えたそうです。 「おそらくケネディもスライスパンは嫌いだったんだろう…」というのが、著者の感想です。

 今、午前9時になろうとしています。今日の昼食には、やはり大好きなパンをいただくことにします。 

2010-1-20

「筏流し」のこと


「筏流し」のこと

 私の世代で、中学や高校の歴史教育にたずさわった者は誰でも、佐藤照雄先生のことを知っています。先生は、文部省に長く所属され、その後、静岡大学などで教鞭をとられました。今年、先生から頂いた年賀状には、25年ぶりに囲碁が六段に昇段したという知らせに、「碁のお手合わせをしたいものです。」というメッセージが添えられてました。(不肖、私はかなり昔から四段位で打っております。)それからほどなく、先生の訃報に接しました。思えば、約30年前、私たちは、佐藤先生を中心に二月会という研究会を組織し、「川と人間」をテーマに月一回、例会をもっておりました。その時私が担当したのが、これから取り上げる“四国三郎・吉野川”です。ずいぶん前置きが長くなりました。

 流量豊かな吉野川は、流域の開発が進んだ江戸時代には、よく洪水を起こしたようです。そのたびに、流域の米作農家は、ひどい被害をうけましたが、この洪水、利用価値もありました。

 吉野川上流で伐り出された丸太は、一本ずつ川で落とし、中流の山城町猫ノ坊や阿波町岩津などの網場で集めて筏(いかだ)に組み、筏師の手によって河口まで運んでおりました。もちろん流送税を徳島藩に払っていました。

 さて、丸太を落とすのは、洪水状態でないとできませんでしたが、洪水が強すぎると網場はもちろん、堤防も壊し、農作物にも大きな被害をもたらしました。洪水の後田畑に残った丸太も勝手に処理できなかったのですから、たまりません。

 天明年間(1781~1789年)、このようなことが重なったので、徳島藩は上流の土佐藩に流送禁止を申しいれました。これはかなり大きなトラブルに発展しました。

 土佐側は再三、流送再開を要求し、それでも徳島側が応じないと最後は、四国山地に隧道(ずいどう。・トンネルのこと)を掘り、吉野川を南流させて、土佐湾に丸太を流す案まで登場させました。

 そこで、徳島藩は天保11(1840)年、制限を加えて流送を許可しました。しかし、本格的に再開されたのは、徳島・高知両県が協定を結んだ明治5(1872)年のことだといいます。

 冒頭の二月会で吉野川を調べていたとき、私は、四国に飛び、レンタカーで、吉野川の河口から、上流の早明浦(さめうら)ダムの先まで、できるだけ流路に沿ってドライブしました。30年も前のことですが、筏流しを見ることはできませんでした。鉄道や自動車輸送の発達で、筏流しの時代が、とうに終わっていたからです。


2010-1-7

縄文土器が登場したのは、いつ?


「縄文土器が登場したのは、今からどのくらい前でしょう?」

 今回は、縄文土器に関して、こんなクイズを考えてみました。
 草早期のものになると、今から1万2千年くらいまでさかのぼれることをご存知の方をひっかけるための問題なのですが、私なりの考え方を説明いたしましょう、少し長くなりますが…。

 1877(明治10)年、アメリカ人の動物学者エドワード・モースは日本列島沿岸の腕足類(わんそくるい、シャミセンガイなどの仲間)を研究するため、来日しました。彼は横浜で数日滞在したのち、汽車で東京に移動しましたが、途中、大森付近で貝塚を目撃します。彼は東京大学のお雇い教師となったのち、その年の9月から11月にかけて何度か現地を訪れ、日本人学生3人の協力を得て、発掘調査を行いました。
(出土品は現在も東京大学に保管され、重要文化財になっているそうですが、残念ながら私は見たことがありません。)
 モースは、再来日した1879(明治12)年、東京大学の研究紀要にShell Mounds of Omori(大森の貝塚)”という英文の報告を発表しました。その中で彼は、出土した土器を“Cord marked pottery”と表現しました。

 モースの報告は、矢田部良吉の口約、寺内章明の筆記によって邦訳され、「大森介墟(かいきょ)古物編」のタイトルで、「東京大学理科会粋」に発表されました。その際、土器の名は、 「索紋(さくもん)土器」と訳されました。

 その後、白井光太郎は、その論文「石鏃考」(「東京人類学会報第一巻」 1886年所収)で、「縄紋土器」の名を使いました。そして1888(明治21)年、東京人類学会会長なども務めた神田孝平が、東京人類学雑誌第4巻に「史前器所蔵之原由」なる論文を発表した際、縄文時代中期の加曾利E式の深鉢土器を写真入りで紹介し、これらの土器は、「縄文土器」と呼ぶべきだと主張しました。

 こうして、1万年あまりにわたり、日本列島各地で使われた素焼きの土器は、すべて「縄文土器」の名で呼ばれることになりました。

 そこで、冒頭のクイズの解答です。少し前まで、土器片が散乱している畑は、あちこちにありました。だから、土器片を目撃した日本人はいつの時代にもいたでしょう。ところが、彼らは、「縄文土器」という概念を持ちませんでした。“概念がない”ということは、“それが存在しない”ことになります。これに対し、モースは大森貝塚出土の土器を“Cord marked pottery”という概念と結びつけ、あとにつづく日本人学者が「縄文土器」という名でこの概念を完成させました。だから、縄文土器は、モースや神田孝平の時代に登場したといっても間違いではない、というのが私の理屈なのです。少し無理でしょうか? 

 現在、大森貝塚は、その痕跡すらありませんが、ゆかりの地に昭和4年と翌5年に記念碑が建てられました。先日、5年の方の記念碑を見学して来ました。以前は私有地にあり、そばにも行けなかったと聞いたことがありますが、今は、(保存会の方々のご努力の結果だと思いますが)立派なアプローチが付けられ、誰でも見学できるようになっていました。

 記念碑は三段の石からなり、最上段には縦書きで、「我国(実は旧字体)最初之発見 大森貝墟(やはり土偏に虚) 理学博士佐々木忠次郎(モースの発掘を手伝った日本人学生の一人でしょう。)」とあり、中段には、英文で、「モースが1877年に発見した貝塚」と記してありました。そうなんです。貝が散乱していることは、たくさんの人が知っていましたが、それを貝塚であると認識し、調査までしたのは、モースが最初だったのです。モースによって、大森貝塚は初めて“貝塚”になったのです。縄文土器の誕生と同じ理屈です。

2009-12-24

「六郷わたれば 川崎の万年屋…」


 人間は昔から、大河と二つの角度で関わってきたように思います。流れに沿った場合と、それと直角をなす場合です。
 前者の重要な例としたいのは、川を輸送手段として利用した“筏(いかだ)流し”で、後者の方は、渡しともちろん橋をあげることになります。今回はまず「渡し」の方から始めます。(筏の方は次回です。乞う、ご期待!)

 東京を東流する多摩川(全長138km)は、河口付近で、六郷川(ろくごうがわ)と名前を変えます。この川が東海道と交わるところに昔、長さ約200m、幅8m弱の大きな橋がありました。木製のこの六郷大橋は、1600年、関が原の合戦の直前に完成したものです。橋の江戸側の八幡塚村(現:東京都大田区)は、掃除、見回りなどをするかわりに300石分の労役負担を免除されたといいます。

 当時の多摩川は流量も豊かで、洪水のたびに、橋はよく破損しました。幕府はそのたびに、普請奉行をたて、用材の伐り出しを命じ、建築資金の面倒をみたり、破損資材の手当てをするなど、奔走したようです。

 ところが、元禄期の1688(元禄元)年7月、橋が流失したとき以後、幕府は橋の再架をやめました。そのため、その後約200年、この地では渡し舟による渡河が続きました。

 渡し船を受け持ったのは、多摩川南岸の川崎宿です。川崎は宿場復興をめざして、この役割を申請し、許可を得ました。このとき幕府から、復興資金(実に!)3500両、渡船御定、船賃銭定などの高札が出されたそうです。その船賃銭ですが、人:一人10文、荷駄:1駄15文、乗掛(のっかけ)荷物:12文…とされたという記録が残っています。

 渡船場には、馬舟8艘、歩行船6艘が常備されましたが、交通量が多いときには、近郷から雇船(やといぶね)が集められました。

 今年、日本に上陸し多くの被害を出した台風18号ほどでなくても、川止めがたびたびあったのも手伝って、両岸の宿場は大いに賑わったといいます。

 この六郷の渡し付近に、1874(明治7)年に左内橋、1884(明治17)年には、六郷橋が出来ました。このため、渡しは休止となり、1925(大正15)年、完全に廃止されました。こうして一つの時代が終わったのです。

 私がまだ小学校低学年だったころ、何度か調布市の多摩川の河原で水浴びをしたことがあります。そのころはまだ、その場所では“渡し”があり、人や自転車などを載せた平たい船を、船頭さんが、川を横切るように渡したケーブルを手がかりに往復させてました。この思い出に浸りながら、この原稿は書きました。


【ご参考までに…】
タイトルに挙げた『六郷わたれば 川崎の万年屋…』とは、“お江戸日本橋 七つ立ち~”で始まる歌「お江戸日本橋」にも唄われている一節。「万年屋」は当時の川崎を代表する旅館(茶屋を兼ねる)だったそうだ。


 

2009-12-11

石川や 浜の真砂は尽く(き)るとも


 16世紀末から17世紀にかけて約20年間、長崎に滞在したイスパニアの商人アビラ=ヒロンが書いた『転訛(てんか)してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告』 (通称「日本王国記」)には、当時殺人を繰り返して、都を荒らし廻った15人の盗人(ぬすっと)の頭目が1595年、生きたまま油で煮られ、彼らの妻子など身内五親等までが処刑されたとあります。

 また、この報告書をローマにもたらしたイエズス会の宣教師ペドロ=モレホンは、それに、
「処刑が行われたのは、前の年のことで、油で煮られた頭目(の一人?)は、Ixicavagoyen、その家族9~10人と兵士風の子分10~20人も 磔(はりつけ)などになった」
という註を書き入れました。

 外国の人にもこのように注目された国際人・石川五右衛門はその後、浄瑠璃や浮世草子、歌舞伎などで繰り返し取り上げられ、話に尾ひれがついていきます。

 まずタイトルの句は、この後「世に盗人の 種子(たね)は尽きまじ」と続きます が、これは松本治太夫が貞享年間(1684~1688年)に語った浄瑠璃『石川五右衛門』に出てくるもので、五右衛門の辞世の句とされています。

 井原西鶴は、『本朝二十不幸』巻二の「我と身を焦がす釜が淵」で、五右衛門が一緒に釜煎りとなった我が子の苦しみを終わらせるため、その死を早まらせた」(「一子を我が下に敷く話」)ことにしています。また、近松門左衛門は、『傾城(けいせい)吉岡染』で、五右衛門を一流の剣客に祭り上げました。

 これが歌舞伎では、一段と派手になります。
 並木五瓶の作品楼門五三桐さんもんごさんのきりは、その決定版で、五右衛門は南禅寺の山門に立ち、盛り上がったツッパリ頭、黒地に金銀の縫い取り、赤い縁取りをした衣装、太いキセルをくわえた格好で、「絶景かな、絶景かな、春の宵は価(あたい)千両……」と、大見得(おおみえ)を切ります。 

 実際の南禅寺・山門は応仁の乱で消失し、五右衛門の時代には、まだ再建されていなかったことなど、全く意に介さないことなど、相当おもしろいです。

2009-11-26

三日坊主でなかった人たち


 三日坊主!…広辞苑によれば、「飽きやすく、何をしても永続きしないこと。または、そういう人をあざけっていう語」とあります。
 以前は、一大決心をして元旦から日記をつけ始めたのに、じきやめてしまう人のことを、『三日坊主』の典型として、よく話題にしました。かくいう私も、そんな人間の一人だと自負しております。

 ところが一方に、何十年も日記をつけ続けた人たちも、厳然と存在します。その例を「暦記」という形式の日記が、数多く書かれた平安時代に求めてみましょう。

 自筆本が残っているもので一番有名なのは、摂関政治の最盛期に栄華をきわめた藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)で、24年分(!)が伝わっています。長徳4(998)年から寛仁5(1021)年まで、道長が33才から56才まで書き続けたものです。最初は記述が簡略でしたが、長女の彰子(しょうし)が天皇のもとに入内(じゅだい)した頃から詳しくなったと言います。わかるような気がします。

 この『御堂関白記』だって相当長いと思いますが、道長と同時代の藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)になると、道長より20年も前からつけ始め、10年余り後までつけたようです。藤原実資は、なかなか反骨精神があり、権力者・道長にも歯向かったと言いますが、60数年に及ぶ(!!)日記の執筆期間で、完全に道長を圧倒したと言えましょう。

 『小右記』と似た名前の日記に、実資より約50年後に書かれた藤原宗忠の『中右記(ちゅうゆうき)』があります。この日記名は、宗忠の家名「中御門(なかみかど)」から「中」を、彼が“右大臣”になったので「右」を取り入れて『中右記』とされたということですが、この日記も52年にわたってつけられたようです。もちろん驚くべき長さですが、「小」右記より、「中」右記の方がやや短いのを知ると楽しくなります。

 申し遅れましたが、『小右記』の方の藤原実資は、「“小”野宮」を名乗り、やはり「“右”大臣」になっております。
 それにしても、平安貴族の皆さんの文才や忍耐力には、本当に頭が下がりますね。

2009-11-18

「神風」は、一度しか吹かなかった!


 『歴史を変えた気候大変動』(B.フェイガン:著 東郷えりか・桃井緑美子:訳 河出書房新社)は、読み終わりそうな今、THE LITTLE ACE AGE :HOW CLIMATE MADE HISTORY 1300-1850”という原題は、直訳した方がよかったのでは…、思うことしきりです。初めから終わりまで、小氷河期の歴史、特に食料事情のことを克明に扱っているのですから。
…今回は、最初から脱線ぎみですね。

 本筋に戻して、同書で扱う時代の最初のころに位置する「元寇」のことを、以前に文章にしたことがありました。やはり、気象と結びつけましたが。

 いわゆる「元寇」は二度あり、三度目は中止となりました。
 最初のものは、起こった1274年の和年号に因んで『文永の役』といいます。この年の正月、元の皇帝フビライ・ハンは、日本征討のための軍船900艘の建造を高麗に命じました。そして同年10月、元・高麗連合軍2万6千は、慶尚南道の合蒲(がっぽ、今の馬山)を出発、対馬・壱岐を侵して、10月20日、博多湾西部に押し寄せました。『八幡愚童訓』によれば、上陸した元軍の毒矢、集団戦法、「てつはう」なる火器などが威力を発揮した…とありますが、日本軍の抵抗もあって、元軍はその日のうちに船に戻り、翌21日博多湾から姿を消しました。高麗に撤退途中、嵐に会って壊滅したらしいというのが、最近の定説です。

 二度目の元寇が、1281年に起こった『弘安の役』です。このときの元軍は、二つの軍で編成されていました。そのうち、東路軍は、モンゴルと漢兵3万人、高麗兵1万人、軍船900艘、江南軍は、南宋の降兵10万人、軍船3,500艘という大軍でした。
 5月3日、東路軍が先陣をきって出撃、21日に対馬を襲い、壱岐を経て、6月6日に博多湾に進み、志賀島に拠点を築いて壱岐に退きましたが、その壱岐で日本軍の激しい攻撃を受けます。そのころ江南軍は、平戸や五島列島で行動中でしたが、7月に入ると両軍は、鷹島(現:長崎県北松浦軍鷹島町)に終結し、博多湾への侵入をはかります。そして閏7月1日、暴風雨に会い、ひどい打撃を受けました。
 周知のとおり、その後、「二度の元寇は、どちらも暴風雨が、日本に幸いした、あれは神国日本を守る“神風”である。」という考え方が広まりました。日本を襲う暴風雨といえば、誰でも台風を思い浮かべます。本当に二度ともそうだったのでしょうか?

 上の説明に登場する月日は、すべて【陰暦】が使われています。もちろん今の何月何日にあたるか、正式に計算できますが、少し横着して、今年2009年の暦で調べてみると、弘安の役で元軍が嵐で壊滅した閏7月1日の前の日は、今年は9月18日にあたり、台風シーズン真っ只中です。ところが文永の役で、元軍が嵐の被害を受けたかも知れないのは、10月20日(今年は12月6日)よりさらに後のことで、台風はまず来ない時期です。
 そこで、本ブログのタイトルのように、「神風は一度しか吹かなかった」と言いたいわけですが、最近、神風=台風…と決め付けるのは、少し乱暴かなと思い始めました。冒頭の『歴史を変えた気候大変動』を読んだおかげです。 

 今では、 「文永の役(12月)で暴風雨の被害に会った元軍が、なぜまた、もっと暴風雨が起こる可能性が高い台風シーズン(9月)に再来襲したか?」ということの方が、気になります。東シナ海沿岸では、この時期に台風が出現するのは分かっているでしょうに…。

プロフィール

【ハム先生】
過去には中学校、現在では都内・某私立高校と某女子大学で教鞭をとる。趣味も「日本史」「世界史」…? 歴史・文化・芸術…等々のジャンルで執筆していくよ!

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